『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の立役者? アヴィ・アラッドとシリーズの歴史

『スパイダーマン』映画の歴史と立役者の存在

 トム・ホランド主演、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)版『スパイダーマン』シリーズの最終章、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が公開中だ。公開前より何かと話題となっていた本作は、公開初日から4日間の累計動員数が100万人を突破し、大ヒット記録を更新し続けている。

 サプライズに溢れた内容で話題の本作は、エンドロールの最後に、ある人物に向けられた感謝のメッセージ(スペシャルサンクス)が贈られている。

THE FILMMAKERS WOULD LIKE TO GRATEFULLY ACKNOWLEDGE THE ORIZINAL TRUE BELIEVER, AVI ARAD, WHOSE VISION LED THE WAY TO BRINGING THESE ICONIC CHARACTERS TO THE SCREEN.

「我々フィルムメーカーは、第一人者にして真の信者であるアヴィ・アラッドに深く感謝いたします。彼のヴィジョンのおかげで、アイコニックなキャラクターたちをスクリーンに登場させる道が開かれました」

 「アヴィ・アラッドに感謝を」。スペシャルサンクスは特別な感謝を伝えるべき重要な人物に贈られる言葉であり、アラッドへ向けられた言葉ではあるが、同時に、この映画は「アヴィ・アラッドに感謝すべき映画」であることを伝えている。アヴィ・アラッドと『スパイダーマン』の関係性を振り返りながら見ていきたい。(※以下、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』に関するネタバレあり)

アヴィ・アラッドと『スパイダーマン』シリーズの始まり

アヴィ・アラッド(写真=REX/アフロ)

 アラッドは、マーベル・スタジオの創設者であり元CEO。『スパイダーマン』シリーズをはじめ、数々のマーベル作品に携わってきた映画プロデューサーだ。幼少期の頃から、『スーパーマン』や『スパイダーマン』などのコミックをむさぼるように読んでいたというアラッドは、大学卒業後、玩具業界でキャリアをスタートさせ、玩具メーカーToy Bizでデザイナーとして働き始めた。1990年、Toy Bizは、マーベル・コミック社と業務提携を結んだことをきっかけに、マーベルキャラクターの玩具を開発し始め、その後1993年に合併し、社名をマーベル・トイに改名した(2007年に解散)。

 この頃のアラッドの活躍は、彼がデザインを手掛けた『X-MEN』の玩具シリーズが3000万ドルの売上を記録するなど、玩具業界で注目されるほどであった。1993年のNew York Times誌で、玩具業界のアナリスト、ショーン・マクゴーワンは、アラッドについて「彼は業界で最もホットな玩具開発者」「彼は子供たちの求める玩具を生み出す創造性をもっている」と称賛していた。

 またアラッドは、この頃より『X-MEN』や『スパイダーマン』のアニメ製作に携わり、玩具製作から、映像製作へとキャリアの幅を広げている。そして1998年、彼はマーベル・スタジオを設立し、本格的に映画業界へ参入していくこととなる。同年よりデヴィッド・ハッセルホフ主演の『Nick Fury: Agent of S.H.I.E.L.D』や、ウェズリー・スナイプス主演の『ブレイド』、『X-MEN』シリーズなど、マーベル・コミックの実写作品を手掛けていた。そして2002年、トビー・マグワイア主演、サム・ライミ監督による『スパイダーマン』の製作総指揮を務め、アラッドと映画版『スパイダーマン』シリーズの歴史が始まったのだ。

『スパイダーマン』(c)2002 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved. | MARVEL and all related character names: (c) & TM 2020 MARVEL.

 またこのとき、『X-MEN』シリーズのプロデューサー、ローレン・シュラー・ドナーの元同僚であったケヴィン・ファイギも、『スパイダーマン』(2002年)の製作に、アラッドのアシスタントとして務めていた。

 アラッドはその後、サム・ライミ版シリーズの続編である『スパイダーマン2』(2004年)、『スパイダーマン3』(2007年)の製作にも携わっていたが、2006年にマーベル・スタジオの会長兼CEOを辞任した。マーベル・スタジオがMCUをスタートさせたのは2008年であり、2006年当時、『アイアンマン』(2008年)を製作中であるにもかかわらず、彼は、MCUスタートを目前にして、自身が設立したマーベル・スタジオを去ったのである。

『スパイダーマン4』の製作中止

 アラッドはスタジオを辞任した理由について詳しくは語っていないが、当時の心境について、以前インタビュー(2019年Deadline)で、「今だから言いますが、ある日『もうたくさんだ』と思ったのです」「会社はCEO、CFOが一緒になって成長してきましたが、基本的に我々(責任者)があらゆる業務をおこなっており、人が多くなりすぎて、対応できなくなったという状況でした」「私にとって、前に進むべき時が来たのだと思いました。さまざまな憶測がありますが、それはたいして重要ではありません。私はいくつかの事を正そうとしただけですが、妬み好きな人たちには、それが攻撃的な姿勢であると判断されてしまったのです」と語っている。

 アラッドがこのような発言をしたひとつの理由として、当時、サム・ライミが計画していた『スパイダーマ4』は、アラッドの意向が影響し、製作が中止されたのではないかという話題が広まっていたことが挙げられる。

 そのように言われている背景には、『ヴェノム』のプロデューサーであった彼は、2007年の『スパイダーマン3』で、マーベル・コミックの人気のあるヴィラン、ヴェノムを初めて映画化させたが、ファンの間では、ヴェノムの理想的な登場の仕方ではなかったとのことで、不満や落胆の声が上がっていた。アラッドは当時のことを「自分のせいだ」と反省しているようで、ライミに対してプレッシャーを与えた責任を認めている。

 アラッドは当時、Screen Rantに対し、「公正な立場で言うなら、(ヴェノムを出させた)私の責任です。サム・ライミが当時、あちこちのインタビューで話していたことに罪悪感を感じています。私はその罪を背負うことになるでしょう。そして、私は誰にも無理強いしてはいけないということを学びました。(ライミは)ヴェノムの内面に、私たちほど興味はありませんでした」と述べており、対してライミは、「『スパイダーマン』(2002年)、『スパイダーマン』(2004年)では、かなりの裁量権をもたせてもらいましたが、3作目では、さまざまな意見が出てきたため、それらをうまくコントロールすることができませんでした」と明かしていた。※1

 『スパイダーマン4』の製作中止理由については、他にもさまざまな理由が挙げられているが、ライミとソニー・ピクチャーズの対立が主な原因として挙げられている。

 当時、『スパイダーマン4』の脚本執筆に着手していたライミは、ソニー・ピクチャーズに対し、「締め切りに間に合わない。(時間がないため)クリエイティブな作品ができない」と、スケジュールの都合上、自身が納得できる作品はできないとのことでプロジェクトは中止となった。ライミの発言を受けたソニー・ピクチャーズの共同会長であるエイミー・パスカルは、引き続き監督にライミを続投することなく、新たな『スパイダーマン』のリブート版に着手。こうして、ライミによって計画されていた『スパイダーマン4』は実現せず、幻となってしまった。※2

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