『ミラベルと魔法だらけの家』3姉妹の描き方に込められた、新たな呪縛からの解放

 ディズニーのアニメーション映画『ミラベルと魔法だらけの家』が公開中である。

 近年のディズニーのアニメーション映画といえば、『アナと雪の女王』や『ズートピア』『モアナと伝説の海』などがある。一連の作品では、実社会で誰もが感じる抑圧を主人公たちも感じており、そこからの解放を描くという面が大きかった。

 『アナと雪の女王』では、触れたものを凍らせるという魔法(能力)をうまくコントロールできず、妹のアナを誤って傷つけてしまった姉・エルサの抑圧が描かれる。成人したエルサは、なかば自暴自棄になりながらも呪縛から解放されるが、それは孤独と引き換えに得たものだった。エルサは、妹アナからのハグという真実の愛によって王国に戻って、女王になり、その魔法の力をコントロールしながら国のために使う。

 『ズートピア』は、肉食動物と草食動物が生きる社会が舞台。警察になるのは体の大きな肉食動物とされていた当たり前(呪縛)を覆し、努力の末にはじめて草食動物のウサギとして警察官となったジュディの奮闘を描いた作品である。そこには、人種差別やジェンダーギャップなども重ねて描かれていた。

 『モアナと伝説の海』は、南太平洋の島で育ち、次の長になることを期待されて育ったモアナが主人公の物語。モアナにかけられた期待は平和や協調性の象徴としての意味合いが強く、自由もなく過保護にされていたモアナが、島の危機を救うために変身の達人・マウイとともに全能の女神の「心」を探しにいく。

 モアナは島の外に出ることを禁じられているが、自分の勇敢さや能力を使って島を救い、守られているお飾り的なプリンセスという立場から脱却したいと思っている。一方のマウイは女神の心を奪えば力を得られると信じていた人物で、同時にヒーローにならないと誰からも愛されないと思っている。

 映画の最後には、ふたりが同時にそれぞれの呪縛から解放される。このふたりが感じている呪縛は、「役に立てる打席に立たせてほしい。そして自分の能力を正当に使わせてほしい」と思わされている女性と、「打席には立たせてもらえるものの、そこで役にたたなければ存在価値がない」と思わされる男性という、社会的にある抑圧を象徴しているように見えた。

 ここまで振り返ると、近年のディズニー作品のプリンセスやヒロインというものは、自分の能力や可能性をその固定化したジェンダー観によって封印されたくない、と感じているものが多かったように思う。それは、実社会に存在する「ガラスの天井」を打ち破りたいということにも重なるところがあった。

 しかし、『ミラベルと魔法だらけの家』は、過去のディズニー映画に描かれたプリンセスやヒロインたちの感じる呪縛をちりばめつつも、また別の呪縛を描いているようにも思えた。

 なぜならミラベルは、過去のヒロインたちが持っている、または努力して身に着けた能力や魔法を持っていないヒロインだからだ。これまでのヒロインであれば、なんとかして魔法を身に着け、それを人のために使うことで解放されていただろう。

 ミラベルは南米コロンビアの奥地にあるマドリガル家に暮らしている。マドリガル家の子供たちは、ある年齢に達すると、ひとりひとり魔法のギフトが送られる。ミラベルの一番上の姉のイサベラは、魔法できれいな花を咲かせることができるし、二番目の姉のルイーサは、怪力の魔法が使える。

 マドリガル家のいとこたちも皆、それぞれ魔法が使えるが、ミラベルだけ魔法を使うことができない。ミラベルは何かしら家族の役に立とうと奮闘するも、迷惑ばかりかけてしまい、挙句の果てに祖母からは一歩下がることも役に立つ方法だと言われてしまう。

 やがて、マドリガル家は危険にされされるようになり、魔法をもたないミラベルは魔法を持たないまま、一家を救うべく奔走する。

※以下、結末に触れています

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