東映70年の歴史を抜きには語れない 『仁義なき戦い』はいかにして生まれたか

 東映映画の歴史を語る上で特筆すべき映画は数あれど、『仁義なき戦い』くらい人口に膾炙した作品は類を見ないだろう。「『仁義なき戦い』以前・以後」という区分もあるほどエポック・メイキングな映画はいかにして生まれたか。それを辿るには東映という映画会社の70年の歴史を抜きには語れない。

それは東映70年の歴史の中から生まれた

 東映は1951年4月1日、東横映画、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して創立された。戦後、GHQの占領政策とそれに沿った日本映画界の自主規制で時代劇映画の製作・配給本数制限がこの年8月に撤廃。戦前から片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗らのスターを擁する東映は時代劇の製作を再開、ちゃんばら時代劇に飢えていた観客のニーズと合致してヒット作を世に送る。東映、東宝、松竹、日活、大映、新東宝の大手六社は熾烈な競争を展開するが、後発の東映は1954年、他社に先がけて2本立て興行を開始。これが当たって1956年、東映は配給収入がトップとなり、中村錦之助や東千代之介主演の年少者向け作品もヒットして時代劇ブームを呼んだ。「時代劇の王国」のフレーズの下、東映の興行体制はここに盤石のものとなったのだった。

 東映には京都の太秦と東京の大泉の東西ふたつの撮影所があり、両輪となって量産体制を送っていたが、興行の中心となったのは時代劇専門の京都撮影所である。スターがそろい予算も潤沢、2本立てのメインとなる華やかなカラー映画の京都作品に対して、東京のつくるのは併映の添え物の現代劇、それも低予算のモノクロ映画で出演者もスター未満の若手中心。こうしたなか、京都とはまったくちがったリアリズムの刑事ドラマ『警視庁物語』シリーズ(1956〜1964年、全24作)が興行的に手堅く作品も評価されており、犯罪映画、アクション映画、サスペンス映画の土壌が徐々につくられていった。1953年東映に入社した深作欣二が東京撮影所の助監督として現場で汗を流していたのはこうした時代である。

時代劇からギャング映画、そして任俠映画へ

 約10年間、繁栄を誇った東映時代劇も量産のなかで勧善懲悪のパターンを繰り返して疲弊し、1962年から当たらなくなる。スターを組み合わせたリアルな集団時代劇もつくられたが、延命策にすぎなかった。いっぽう東京では石井輝男と井上梅次といった監督が派手なアクションを見せ場にしたギャング映画がヒットしていた。そんなおり、東京でつくられた『人生劇場 飛車角』(1963年、沢島忠監督)が当たり、東映は時代劇に代わる鉱脈を見つける。尾崎士郎の原作小説は何度も映画化されてきたが、基本的に文芸映画であった。この映画は「仁侠篇」を拡大して侠客の飛車角を主人公としたもので、のちの任侠やくざ映画の雛形となっていた。すぐに続篇や類似作品がつくられ、翌年から東映は鶴田浩二、高倉健の主演する任侠映画路線に本格的に舵を取る。高倉健主演の『日本侠客伝』(1964〜1971年、全11作)、『網走番外地』(1965〜1971年、新シリーズ含めて全18作)、『昭和残侠伝』(1965〜1972年、全9作)の三大シリーズが出そろった1965年(昭和40年)以降、東映は東西の撮影所を使って、京都の着流し任侠物、東京の現代物のやくざ映画の量産体制に乗り出す。スターの中心は鶴田と高倉で、のちに若山富三郎、藤純子らが鮮烈に加わった。

『人生劇場 飛車角』(c)東映

 おりしも時代は高度経済成長期に突入していたが、やくざ映画の主な観客はその繁栄のなかで地道に働くブルーカラー層であった。斜陽の日本映画界にあって東映のやくざ映画は確実に興行成績を上げていた。三島由紀夫が『博奕打ち 総長賭博』(1968年、山下耕作監督)を絶賛したり、学生運動の学生たちに支持されていたというエピソードばかりが語られるが、東映やくざ映画の本質はつねに大衆とともにあったのである。

 東映の主流となった任侠やくざ映画も時代劇と同じく量産のなかで衰退に向かう。1970年ごろからマンネリ化によって鶴田浩二や高倉健の映画の興行成績は下り坂にあり、1972年の藤純子の結婚引退によって東映映画はひとつの節目を迎える。鶴田浩二の任侠映画がつくられなくなり、高倉健の三大シリーズも終了するいっぽう、任侠映画の添え物であった池玲子、杉本美樹主演のスケバン映画が好調、梶芽衣子主演の劇画原作映画『女囚701号 さそり』(1972年、伊藤俊也監督)がヒット、シリーズ化される。興行の柱となる任侠映画をやめてもこれらの小品が代わりを務まるのかというと心もとない。ではどうするか。東映映画は重大な分岐点に差しかかっていた。

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