菊地成孔の映画蔓延促進法 第1回後編

菊地成孔の『イン・ザ・ハイツ』評(後編):脚本構造におけるリアルとファンタジーの合成

『イン・ザ・ハイツ』の脚本構造/ファンタジーサイド

 そもそも本作では、とてつもない貧困や、更生不可能な麻薬やアルコール依存等々、「目を覆わんばかりの」シーンは出てこない。舞台となるワシントンハイツは200万人の住民中7割強がヒスパニックの、ニューヨーク最大のヒスパニック・コミューンで、8~90年代には、安価で致死性の高い殺人的ドラッグであるクラックのブームと、それを支えるギャングと貧民による治安の悪さが名高く、しかしその20年後の世界は、我が国におけるシャッター街の停滞感程度に映し出される。

 ソニーが反面教師として親子関係を断絶している(関係は最後まで修復されない)、全身タトゥーでアルコールとドラッグ依存の父親(彼が前段の、「治安最悪なワシントンハイツ」の生き証人なのだが、劇中、それは彼一人だけだ)の、短い登場シーン、登場した段階で既に「死」のフラグが立っているほどに「死んでほしくないキャラクター」アブエラが、ハイツの外から越してきたアングロサクソン系のクリーニング屋に、大切な手縫いの刺繍が施されたハンカチ数枚をクリーニングに出そうとし、桁違いの額におののき「この街にようこそ」と言いながら、惨め(クリーニング店主は紳士で、アブエラを大変好意的に迎えるだけに)に店を去る。リアルライフで起こる「痛いシーン」は、この2つだけだ。

 物語を動かす原動力である、「悪」も登場しない(合衆国そのものでさえ、攻撃や批判の対象には、実質上、なりきっていない)。誰もがハイツの善人であり、助け合い、裏切りも奪い合いもない世界は、まるで落語における貧乏長屋のようである。パーティーともなれば豪華と言って吝かでないカリビアン料理が山のように並び(ものすごくうまそう)、サルサのクラブパーティーは、80年代のそれのようだ。

 そして、ヒスパニックの体型に最もフィットするかもしれない、ナイキを筆頭とする(ナイキはロゴマークがはっきりと映るし、エンドロールには協賛会社のひとつとしてを連ねる)めくるめくセクシーでヘルシーなスポーツウエア、ダンスウエア、スイムウエア、カジュアルウエアで画面は埋め尽くされる。

 それは<ハイクオリティのカジュアルウエアの安価化、という現実>という世界的な現実に対してはリアルかもしれないが、例えばドキュメンタリーの巨匠、フレデリック・ワイズマンの『ニューヨーク、ジャクソンハイツにようこそ』(2015年)と本作を2本立ててで見たら、本作が、基本的に「貧乏くささが脱臭されているブロードウエイ・システム」の「画面には脇役や乞食まで含め、素晴らしい衣装しか映らない」世界であることが瞭然とするだろう。

 ダブル・カップル型脚本に時折用いられる、「カップルの交換(その危機)」すらもない。ウスナビとバネッサ(メリッサ・バレラ演。登場シーンから強気なラテン娘で、中編で記した『百万弗の人魚』の天井カメラのプールシーンでは、ビキニの水着で画面の中央に位置するが、主人公の恋人なのに、ソロダンス、カップルダンスのシーンはなく、登場時から漸近線的に魅力が下降し、低値で安定する)は結婚して子を授かるが、ニーナとベニーは(特殊撮影を駆使した、素晴らしい、最後のカップルダンスを披露した後に再び)別れる。しかしそこに、あふれんばかりの幸福も、胸を締め付ける不幸もアサインされることはない。2つの愛は、揺らぎもしないし(ツンデレ態度の軽い諍いはあるが)不幸も迎えない。

 では、悪、悪人、悪い国家、も登場しない、落語の貧乏長屋のような、生活感と善意あふれる世界で、物語は、何を原動力に駆動するのだろうか? これが何と「停電」なのである。

 いわゆる「ニューヨーク大停電」は、1965年、1977年、2003年に起こり、これらは映画の題材にすらなった、都市の機能停止という大ネタだが、以降、ニューヨーク市は「停電都市」と呼ばれつつも、配電や通電のシステムテクノロジーは向上を続け、場合によっては本作の制作期間内かもしれない、2019年7月13日の午後7時にも大規模なそれが起こっているが、ほぼ24時間以内に復旧/通電している。

 本作は、開始早々から「停電3日前」というカウントダウン表示が画面に現れ、サスペンス効果を上げている。そして、前述、まるで80年代のディスコ・シーンでもあるかの如き、サルサのパーティーのクライマックスに停電が起こるのだが、何と復旧まで一週間ほどかかるのである。

 本作最大の死(何せ、群像劇でありながら、死ぬのは一人だけだ)であるアブエラの死は、老衰や過労を元手にしているとはいえ、真夏の停電による暑さによって(恐らく)熱中症/脱水症の合併で死ぬのだ。この死に、「移民だから」という物語上の書き込みはない。敢えて言えば、国民皆保険ではなく、肥満大国である合衆国であれば、真夏にクーラーがこんなに長期間止まれば、移民だろうと誰だろうと老人や病的肥満の者は死ぬのではないか? という域を出ない(念のため、アブエラは病的肥満ではない)。

 筆者は、この長文で繰り返し指摘してきた「本作が抱く、リアルとファンタジーの合成」の、最も詐術的な(=見事な)脚本上のテクニックが、この「今時(現代であることは間違いない。登場人物は全員スマホを持っている)、こんなに長く停電が続くの?」という点に凝集されていると思う。

 めくるめく移民問題とミュージカル展開に目を奪われ、この点に着目する者は、恐らく少ない。台風の目のようなものだ。

 そして、文字通り、悪夢のような、真夏の停電が終わると、登場人物の抱く葛藤は、すべて解決する。ニーナは復学を決め、卒業後は移民問題を解決すべくアクティビストになると決意し、富や地位ではない目的を掲げた娘に、劇中、出世だけを願っているかのように見えた父親は「お前はついに私を超えた」と言って抱きしめて賞賛する。恋人のベニーは前述、再びの別れをラストダンスで飾った後、彼女を祝福し、敢えて旅立ちの日の見送りはせず、新しい職に就く。

 残るは、敢えてここまで書かなかった、主人公カップルであるウスナビとバネッサの葛藤、そして、作劇上、移民問題リアルサイドからの最大のものとなる「ソニーは大学教育を受けられるのか?」という問題、の解決は、以下のようなものだ。

1)主人公ウスナビ(アンソニー・ラモス演。典型的なボクサー、ローライダー顔。『ハミルトン』で、ハミルトン役と息子フィリップ役の2役を演じて、本作への起用となった)は、台風被害で廃墟同然となった、故郷ドミニカにある父親の店を、帰国して復興することを冒頭から決めており、それはこのハイツを離れなければならないことを意味している。のだが、そもそも本作はドミニカのビーチで、復興を終え、子供も授かったウスナビの半生記語りから始まるので、予め、彼がハイツを去ったことは観客に提示されている。

2)恋人のバネッサの葛藤は、服飾デザイナーになれないことで、そこには、ちょっとした移民差別(ファクトリーとしての部屋を貸してもらえない等々)もあるが、それよりも、才能が未開花だという点の方が問題視される。

3)ソニーは、頼りになるハイツの弁護士から「正直にいうが、かなり難しいぞ。それでも闘うか?」と問われ、「闘う」と誓う。しかしそれには莫大な学費が必要となる。

 以上3点は、ほぼほぼ同時に解決する。(3)の解決法は、何と宝くじだ。宝くじの一等を当てたが、黙ってウスナビへの遺品としてアブエラが隠していたことを、ウスナビはニューヨークを立つ直前に知る。もう一度書くが、金銭捻出問題の解決策が宝くじである。死んだおばあちゃんが一等を当てて、隠し持って残してくれていたのである。

 (2)の解決法と解決規模は以下のようなものだ。デザイナーを目指し、ゴミ収集車に回収される前のゴミ箱から端切れを集めていながらにして、「まだ自分が作りたい服のイメージがわかない」ことに苦しむ彼女は、劇中、第二脇役集団の一人である、グラフィティ・アーティスト志望の青年(若干いじめられキャラ)が、カラースプレーの汚れを拭うための端切れから、突如インスピレーションを沸かせ、それをテキスタイルにした服を作り、世界的に有名な、ヒスパニックの女性デザイナーに、、、、とミスリードしながら、出来上がった服は、ヒスパニック御用達の派手でバキバキな、つまり図式的に凡庸なドレスの一部に、汚れた端切れをあしらっている程度の商品で、それはウスナビの店でのみ売られ、それはそれで現実則だとしても、観客に与える服飾的に鮮明な感動は、敢えて最低限まで抑えられる(カラースプレーの汚れを拭いた布だけで、モダンアート的な斬新で美しい服を製作することは、このスタッフならば、たやすいことだ)。

 そもそも、彼女の葛藤は、劇中、<覚醒して天才デザイナーになれるか?>と<ウスナビが帰国せずにハイツに残り、結ばれたいのに>というハーフ&ハーフに分節され、葛藤自体の規模も成果も相殺され半減化する。<結果ウスナビのおかみさんになれて良かったね、そして服は自分が納得してるんだから、それ相応で良いんじゃない?>といったレヴェルに。

 そして、舞台版ではどういう演出になっているのか想像が難しいのだが、(1)の<ウスナビ帰国の葛藤>は、繰り返し書いた通り、結局ハイツに残り、バネッサと結婚し、子供を授かる。という解決を迎える。

 では、冒頭からずっと続き、ワンエピソードごとにインサートが起こり続ける、「故郷ドミニカのビーチ」は何なのだろうか?

 幻視なのである。もう一度書くが、幻視というのも憚られる、単なる夢想なのだ。ウスナビが本作の冒頭から(バネッサと切り盛りする、近所の子供達も出入りする)自分の店におり、そこで半生記を語っていたことが、ラストギリギリで観客に明かされる。

 筆者は、劇中、真ん中あたりで「これ、まさか夢想で、ウスナビは結局ハイツにいるのでした。じゃねえよな?」と思いかけては、歌と踊りに持って行かれ、不安は中断され続けた。

 「うっわ。夢想か。やっぱ」と思った瞬間、店にいた登場人物は、唖然とする筆者を尻目にどんどん店を出て、路上に待ち受ける数百名のダンサーたちとの群舞シーンに突入する。本編掉尾を飾る16曲目「フィナーレ」の完成度とエネルギーが放つ、凄まじい感動と、「夢想オチー!」「バネッサこんでいいのー?」「宝くじー!」「ヒスパニックって単なる気の良い元気な人たちー!」という心の叫びが交錯する、まるで何かのグルーヴのような引き裂かれ感。

 こうして<ミュージカルが持つエネルギーと、移民問題が持つエネルギーの衝突とその結果>は、既視感と未視感に満ちたハッピーエンドとして、強烈な結合効果を残す。これが移民の混血性のトレーシングとでもいうことなのだろうか? 違うのである。最後の群舞の終結とシンクロするエンディングは、ウスナビとバネッサの女児が抱き上げられ、持ち上げられ、クローズアップになった瞬間で止まる。つまり写真化である。彼女の<力強い>としか言いようのない、凛とした表情のポートレイト(それは、実際のデモで撮影された報道写真のようだ)が、怒涛のように押し寄せる夢の御都合主義エネルギーを独力でせき止める。その瞬間、本編はエンドクレジットへスムースに移動するのである。エンドクレジットが動き出すと同時に、この、3編に渡った長文は、わずか3文字に要約可能となる。筆者は思わず、劇場で口に出してしまった。「お見事」。

(※お約束「エンドロール後のショートエピローグ」は、劇中コミカルに登場していたピラグア(かき氷)売りのエピソード。氷屋を演じるのはリン=マニュエル・ミランダその人である)

■公開情報
『イン・ザ・ハイツ』
ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにて公開中
監督:ジョン・M・チュウ
製作:リン=マニュエル・ミランダ
出演:アンソニー・ラモス、コーリー・ホーキンズ、レスリー・グレース、メリッサ・バレラ、オルガ・メレディス、ジミー・スミッツ
配給:ワーナー・ブラザース映画
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