濱口竜介監督の圧倒的な一作 『ドライブ・マイ・カー』という主語なきフレーズが示すもの
長い序章は、物語の発生だった。妻の音はセックスのあとで語り部に変身する。ベッドに横たわった体勢から起き上がり、座位の姿勢で淀みなく物語を語る行為は彼女の性癖となっているが、古代宗教の巫女のように吐き出した物語を、彼女は翌朝にはケロっと忘れている。それを夫が記憶を元に彼女へ送り返してやる。それを脚本に生かし、彼女はストーリーテラーとして成功を得た。しかし、はっきりとは説明されないが、オーガズムがスイッチとなってせり上がってくる物語は、おそらく喪失の代償なのではないか。4歳で亡くなった娘の法要をおこなうシーンがある。2人目の子を欲しがらなかった彼女が吐き出し続ける物語行為は、亡くなった娘さんと関係があるにちがいない。
「娘が生きていれば23歳になっている」。家福悠介がそう言ったとき、バックミラー越しにみさきのわずかな反応がワンカット挿入される。偶然とはいえ、現在23歳のみさきと、4歳で亡くなった家福の娘は同じ年令なのであり、しかしそこに過剰な分身作用を意味づけしないように気をつける本作の聡明さには舌を巻く。子を喪い、愛妻を喪った演出家と、孤児として生きてきたドライバー。たがいを鏡のようにして信頼を築いていくとき、常にそこにはSAAB 900ターボがあった。
DRIVE MY CARには主語がない理由が、徐々にあきらかになってきたように思う。それは主語が可変だからだ。物語が妻から夫にもたらされ、夫がそれを打ち返す。そもそもその物語の出どころは亡き娘の魂なのかもしれない。そして物語は音の死後も語られる。SAAB 900のカーステレオからはいつも、音が夫の稽古用に吹き込んでくれたチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』の録音テープが流れている。それを赤の他人であるみさきも毎日、音の声を聴きながら運転している。語り手の死後も物語が残る。DRIVE MY CARという主語なきフレーズは物語そのものを指しているのだろう。
家福悠介が演出家として選ぶ上演作にはオリジナル新作はないようだ。ベケットの『ゴドーを待ちながら』そしてチェーホフの『ワーニャ伯父さん』。いわゆるレパートリーシステムだ。『ワーニャ伯父さん』がモスクワ芸術座で初めて上演された1899年秋、作者のチェーホフは健康を害していたとはいえ存命であった。同作でエレーナ役を演じた女優と結婚にも至っている。6年後、作者は肺結核で死んだが、戯曲は今なおくり返し上演され、舞台芸術は絶えざる更新が起きている。エレーナのセリフ「どうしてあなたがたは、自分のものでもない女のことを、そう気に病むんでしょう?」を、あるいはまたワーニャのセリフ「もしおれがまともに暮らしてきたら、ショーペンハウエルにも、ドストエフスキイにもなれたかもしれないんだ」を、歴代の数々の演者たちが更新し続けてきたことだろう。
そして『ドライブ・マイ・カー』の人物たちもまた、物語を継承し、更新するつかの間の主語として生きるほかはない。彼らの死後もチェーホフのテクストは残る。妻の死の意味をずっと問い続け、時間稼ぎのドライブで帰宅が遅れて脳梗塞の妻を見殺しにしたという罪悪感にさいなまれる家福悠介にとっても、『ワーニャ伯父さん』のラストの、絶望したワーニャを姪のソーニャが慰める名高いセリフ「ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね」「そして、やがてその時が来たら、おとなしく死んで行きましょう」は、自分自身への去来でもあることだろう。過去に囚われる主人とは対照的に、忠実な愛車たるSAAB 900ターボはバックミラーにいっさい、過ぎゆく風景を写し出さない。太陽や街灯を正面から受けとめた渡利みさきの顔をとらえるのみである。みさきはよそ見せず、毅然として前を見据えている。
ワーニャを慰める姪ソーニャのラストの長セリフを、この『ドライブ・マイ・カー』は思いがけないやり方で見せつけて、見る者を圧倒する。娘を喪った音がまさにオトとして物語主体と化し、夫は戯曲というテクストとの格闘をもって、取り残された者の悲惨と絶望を克服しようともがく。そしてついには、ソーニャ役の韓国女性によって物語が身体言語へと大化けする。
家福悠介みずから演じるワーニャは、姪ソーニャ演じる韓国女性に背後からがぶりと包み込まれ、身体言語を間近で享受する第一観客となる。モスクワ芸術座で『ワーニャ伯父さん』の初演を観劇した作家のゴーリキーが「女のように号泣した」と述べたこのシーンに対する意表を突く更新ぶりに、こんどはわたしたち観客がゴーリキーになる番である。さらに画面がバックショットに切り替わると、ピタリと密着した姪と伯父の後ろ姿となる。このバックショットに動揺を抑えることなどできはしない。濱口竜介監督に『親密さ』(2012年)という旧作がある。『親密さ』も演劇上演を主題にした作品なのだが、上演シーンのラストではトランスジェンダー女性が、ひそかに慕う男性のために書いたテクストをみずから読み上げる。その孤独な人影を背後からとらえつつ、暗闇から彼女を凝視する大勢の観客をとらえた時とそっくり同じショットが、今回は、密着しつつ身体言語をくり出す2つの肉体として再提示されたのだ。
証人がいようといまいと、理解者がいようといまいと、物語は力強く継承され、更新されるのだし、有限でしかない人間という置換可能な主語なしでもMY CARはすんなりとDRIVEされる。冷徹なのに熱いこの映画じたいを大型のバックミラーに見立てつつ、「長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通して」いくのは、わたしたち観客の番なのである。
■公開情報
『ドライブ・マイ・カー』
TOHO シネマズ日比谷ほかにて公開中
出演:西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、パク・ユリム、ジン・デヨン、ソニア・ユアン、ペリー・ディゾン、アン・フィテ、安部聡子、岡田将生
原作:村上春樹『ドライブ・マイ・カー』(短編小説集『女のいない男たち』所収/文春文庫刊)
監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、大江崇允
音楽:石橋英子
製作:『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
製作幹事:カルチュア・エンタテインメント、ビターズ・エンド
制作プロダクション:C&I エンタテインメント
配給:ビターズ・エンド
2021/日本/1.85:1/179分/PG-12
(c)2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
公式サイト:dmc.bitters.co.jp