沢田研二だからこその“ダメ親父像” 15年ぶりの映画で見せた“キネマの神様”の微笑み

 “ジュリー”の愛称で親しまれ、ミュージシャンとしてだけでなく、俳優として多くの映画ファンから世代を超えて愛され続けている沢田研二。そんな彼が『キネマの神様』で15年ぶりに映画出演を果たした。それも、演じているのは作品の顔となる主役。前田旺志郎、志尊淳といった若手から、寺島しのぶ、小林稔侍、宮本信子ら日本を代表するベテラン勢に囲まれて、二人一役を演じた菅田将暉とともに、この“キネマ(映画)”を背負っている。

 本作で沢田が演じているのは、借金まみれで家族からも見放されているダメ親父・通称ゴウ。彼がヤミ金に手を出したことで、借金取りが娘(寺島しのぶ)の会社に電話をかけるてくるどころか、自宅にまで押しかけてきて怖い思いをしようとも、ゴウ自身は都合の良い言い訳ばかり。反省の色の一つすら見せない、救いようのないギャンブル狂である。身体的にも限界がきているが、それでもギャンブルのこととあらばハイテンションに。しかしそんな彼にも、かつて本気で情熱を注いだものがあった。それが映画なのだ。


 本作は、作家・原田マハによる同名小説を原作としたもの。映画化に際してさまざまな点が脚色/改変されている。その最たる点は、この主人公の人物設定。小説版でのゴウは映画を“観る専門”だが、映画版でのゴウは若かりし日に“作る専門”だったとなっているのだ。このゴウの青年時代を演じるのが菅田。熱心に映画への愛を語る菅田(若きゴウ)と、周囲への迷惑を省みないふてぶてしさを見せる沢田(現在のゴウ)の姿は、非常に対照的だ。この二人の姿が数回クロスして示されるだけで、ゴウという人間が挫折してしまった存在なのだというのが分かる。

 多くの方が知るとおり、志村けん氏の訃報を受けて沢田はゴウの代役を務めることになったのだが、沢田だからこその“ゴウ像”を立ち上げているのではないだろうか。特に感じるのが、いまだに多くの聴衆を魅了し続けている声の色気。もちろん、作品の性質的に本作はシリアスなホームドラマではない。しかしなぜ、こんなダメ親父をなんだかんだで家族たちは気にかけてしまうのか。その根拠を、演じる沢田の声に感じないわけにはいかない。

 また、このダメ親父をどうにも嫌いになれない理由として、沢田の演技への演出も挙げられると思う。本作の俳優たちのアクションとリアクションは、正直、リアルなものだとは言い難いところがある。その筆頭が、ゴウを演じる沢田だろう。ときに周囲の者たちを置き去りにしてしまうような彼の口上は、あの「寅さん(渥美清)」を想起させる。思い返してみれば、沢田が山田監督作品に登場するのはこれが二度目。一度目は、そう、「寅さん」が看板を背負う『男はつらいよ』シリーズの第30弾『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』(1982年)である。今作『キネマの神様』での沢田には、芝居も主人公像もどこか“寅さん的”なものを感じてしまう。『花も嵐も寅次郎』では生真面目で不器用な青年に扮し、破天荒な寅さんから教えを請うような役どころだっただけに、今回はゴウのような破天荒な役に扮しているのがどうにもファンの心をくすぐる。演技への演出の時代錯誤感は否めないのだが、それが一周回って楽しさを感じさせるくらいなのである。

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