森山未來が維持するダンサーとしての身体性 東京オリンピック開会式で感じた驚き

 そもそも森山には、「俳優」だけでなく、「ダンサー」という肩書きがある。幼少期よりダンスに取り組んできたため、キャリア的には俳優業よりもダンサー歴の方が長いのだ。2013年から2014年にかけての1年間、文化庁文化交流使としてダンスのため海外へ渡ったことは、“知る人ぞ知る”経歴といったところなのだろうか。イスラエルのインバル・ピント&アブシャロム・ポラック・ダンスカンパニーなどで滞在して活動し、2014年の10月には東京都現代美術館にて同カンパニーによる『ウォールフラワー』が上演された。筆者は、このときに初めて生で森山の踊りを目にしたのだが、そこにあったのは映画やドラマで見る彼ではなく、「ダンサー・森山未來」の姿だったことを鮮明に覚えている。

 さて、ここまで記してきたことは、森山に関するただの事実である。最後に、筆者がオリンピックの開会式での彼の踊りを観て感じたことを述べたい。それは、「俳優」としてこれだけアクティブな活動を展開しながら、それでも「ダンサー」でもあり続けられるということだ。たとえば、『苦役列車』(2012年)では不摂生が身に染み付いた若者を演じるため、森山は自身の生活環境も変えたというし、ボクシング映画『アンダードッグ』(2020年)では、自身の身体をボクサーの身体につくり変えた。それらは鍛えられたものであろうとなかろうと、“ダンサーの身体”ではないはずだ。作品ごとで演じる役に合わせた身体づくりを実践しながら、それでも森山はダンサーとしての身体性を維持し続けている。それを世界中の人々の視線が集まる中で証明したのだ。筆者が森山の踊りを観てもっとも驚かされたのは、この事実である。

 演じることを「踊り」と捉えている表現者・田中泯ともまた違う。森山未來という存在もまた、「俳優」や「ダンサー」の枠組みで語ることができない、唯一無二の表現者なのだと思う。

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