『ブラック・ウィドウ』が描いた“一つの希望” マーベル・スタジオのヒーロー映画から考察
本作の重要なテーマは、もう一つある。それは現在の社会で大きな問題となっている、女性を搾取するシステムと、歪んだ価値観だ。近年、女性の人権問題で大きく注目された事件といえば、映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる、立場を利用した大勢の女性への性的暴行とセクシャルハラスメントである。その前年に問題となった、FOXニュース創設者ロジャー・エイルズによる同様の事件は、『スキャンダル』(2019年)として映画化された。
本作でナターシャが潜入した、黒幕ドレイコフの自室は、『スキャンダル』で再現された事件現場のオフィスを想起させる、誰の目もない密室空間である。そこでドレイコフは、ナターシャの弱みを利用して、拳や足で暴力を振るい、優越感にひたる。大勢の観客が楽しむヒーロー映画としての性質上、性的な暴行としては描写されないが、作り手側はこの二人の構図に、社会のなかで起き続けている、女性が男性に受ける、人権を蹂躙するあらゆる屈辱の場面を象徴させているのは明白だ。
このような屈辱を受け、搾取されていたのはナターシャだけではない。レッドルームに連れてこられた大勢の女性たちが、ドレイコフに屈服させられ、あらゆる命令に従ってきたのだ。ナターシャは、ドレイコフに操られる全ての“ブラック・ウィドウ”のために、決死の戦いに身を投じる。そして、崩壊していくアジトの中で、自分の身も顧みずに、誰一人あきらめることなくウィドウたちを救おうとする。
映画『スキャンダル』で描かれたように、セクハラや性的な暴行を受けた人々が、なかなかそれを告発できないのは、好奇の目にさらされたり、逆に非難を浴びることになる場合があるからである。近年盛り上がりを見せている「#MeToo」運動は、声をあげた人々に続き、どんどん声を増やしていくことで、告発しやすい社会を作ろうとするねらいがある。そしてその声は、今後声をあげる人々をも救うことになる。本作における、全ての犠牲者を救おうとすることで生まれるナターシャの勇気は、そのような、他者への思いやりや優しさの感情に重ねることができるのではないか。
これまでのマーベル・スタジオのヒーロー映画は、何度となくそのような気高い精神を描いてきた。『アベンジャーズ』(2012年)では、強大な力を持ったロキに「奴隷になれ」と迫られた群衆の中で、ある男性が一人立ち上がって、人間の勇気と尊厳を見せた。『キャプテン・アメリカ/ザ・ウィンター・ソルジャー』(2014年)では、S.H.I.E.L.D.の一職員が、世界を支配しようとするヒドラ一味の命令に背いて、死を覚悟して協力を拒んだ。彼らはスーパーパワーや特別な格闘スキルを持っているわけではないが、その魂はヒーローそのものである。我々観客は、自分が命を捨てて犠牲になる選択まではなかなかできないが、このような気高い精神を持ち、現実の悪意に立ち向かうことは可能なのである。
ナターシャ・ロマノフもまた、アベンジャーズの他の強大なヒーローたちに比べれば、普通の人間の側に近い存在だ。しかし、それでも彼女が勇気を出して敵に立ち向かえるのは、他者への思いやりと優しさが力を与えていたからだという解釈を、本作は与えることとなった。『ブラック・ウィドウ』の冒頭で見せた、身を挺して妹を守ろうとしたナターシャの優しさが、彼女の正義の本質なのである。そして、その姿勢はエレーナにも受け継がれ、生き続けるはずなのだ。本作が描いたのは、そんな他者への優しさが次々に伝播し、世界を良い方向に変える力になり得るという、一つの希望だと考えられる。
マーベル・スタジオのヒーロー映画は、現代社会のなかで、いま何が正義といえるのか、何をすれば真の英雄なのかを考え続けるシリーズである。その意味で本作は、役割を十二分に果たした一作だといえるのではないだろうか。
■公開情報
『ブラック・ウィドウ』
映画館&ディズニープラス プレミアアクセスにて公開中
※プレミアアクセスは追加支払いが必要
監督:ケイト・ショートランド
出演:スカーレット・ヨハンソン、フローレンス・ピュー、レイチェル・ワイズ
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
(c)Marvel Studios 2021