スカーレット・ヨハンソンが提示する喪失の先の歩き方 『ブラック・ウィドウ』までを辿る

スカーレット・ヨハンソンが提示する喪失の先

ミッシング・パーソン

「音楽が死んだ日、私は歌い始めた」(ドン・マクリーン「アメリカン・パイ」)

 『ブラック・ウィドウ』はスカーレット・ヨハンソンによる情熱の結晶だ。プロデュースも兼任するスカーレット・ヨハンソンの直談判により、ケイト・ショートランドは本作の監督に起用された。ケイト・ショートランドの『さよなら、アドルフ』(2014年)に感銘を受けたのが大きな理由だったという。

 『さよなら、アドルフ』は、大戦直後のドイツの混迷をサバイブする一人の少女とその家族を、漂白された少女性とは無縁の生々しさで描く秀作だ。ケイト・ショートランドは、少女の髪の毛や肌が放つ「呼吸」をクローズアップでスケッチすることに成功している。

 ケイト・ショートランドのこうした自然主義的なスケッチは、『ブラック・ウィドウ』のファーストシーン、幼少時代の青髪のナターシャとエレーナが緑の中で戯れる無邪気な遊戯によく表されている。また、ケイト・ショートランドが本作のインタビューで、次のような言葉を残しているのは示唆的だ。

「彼女のスーツの下にあるもの、つまり皮膚の下にあるものを見ていただきたい」(参照:Cate Shortland Interview: Black Widow|SCREENRANT)。

 『ブラック・ウィドウ』はビッグバジェットの作品として豊饒なアクションを披露しながら、戦う女性の肌や髪の質感、その肌理を細かくスケッチしていく。大人になったナターシャ(スカーレット・ヨハンソン)とエレーナ(フローレンス・ピュー)は、互いに銃を突きつけるシーンで再会する。二人の女性による室内でのバトル。お互いを壁に叩きつけるこの激しいバトルには、冒頭シーンの遊戯と同様の、肌の持つ生々しさが刻まれている。そしてこの肌理は、焼け野原に立つナターシャの決意の表情へと帰結していく。

 『ブラック・ウィドウ』は、姉妹が幼少期にカーステレオから流れるのを聴いた「アメリカン・パイ」の歌詞のように、ナターシャ、そしてエレーナが歌い始めるまでを描く。残酷な過去を忘れないために紡がれたメロディ。それは本作が継承の物語であることと符合する。ナターシャとエレーナの戦いは、音楽が死んだ日、喪失の日に始まるのだ。

 スカーレット・ヨハンソンが『ブラック・ウィドウ』をセルフプロデュースするに至った過程と、彼女が辿ってきたフィルモグラフィーには、切り離せない関係がある。『のら猫の日記』(リサ・クルーガー監督/1996年)で、義理の姉に誘拐された「ミッシング・パーソン」として注目を浴びた子役時代のスカーレット・ヨハンソン。マニー(スカーレット・ヨハンソン)は、スーパーで手に取った牛乳パックの裏に「ミッシング・パーソン」(実際に起きた少女行方不明事件)の写真を見つける。一切の表情を変えることなく牛乳パックを元の位置に戻すマニー。この少女に、スカーレット・ヨハンソン=ナターシャ・ロマノフというキャラクターの孤独が重なっていく。『ブラック・ウィドウ』は、レッドルームを支配するドレイコフによって捕えられプログラミング化された少女たち、故郷を奪われた女性たちの物語なのだ。

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