『おちょやん』夫婦の別離を丹念に描いた理由 “大阪のお母ちゃん”になる重要ステップに

『おちょやん』夫婦の別離を丹念に描いた理由

「何でうちやあれへんの?」

 腹の底から絞り出された千代(杉咲花)の慟哭。こんなに辛い「週タイトル回収」があるだろうか。いよいよ佳境を迎えた『おちょやん』(NHK総合)第20週「何でうちやあれへんの?」では、千代の知らぬ間に男女の関係になっていた一平(成田凌)と若手女優の灯子(小西はる)の間に子どもができ、天海夫妻は離縁することに。父・テルヲ(トータス松本)との“死闘”も、戦争も乗り越えてきた千代に、人生最大の試練が訪れる。

 9歳で出会ってからずっと互いの映し鏡であり、同じ魂の片割れであった千代と一平。共に家族を失った2人が夫婦となり、支え合い、鶴亀家庭劇・鶴亀新喜劇という“家族”を作り上げた。千代にとって劇団は「血縁に頼らない擬似家族」であった。ところがその「擬似家族」の中から、千代が一平という家族を失い、再び独りぼっちになってしまう理由が生まれるというのがいたたまれない。

「何が二代目天海天海や。うちがいてへんかったら何もでけへんかったくせに。あんたの着物どんだけ洗濯した思てくれてんねん。ご飯も作って掃除もして、劇団の面倒も見て……せやのに……何でうちやあれへんの?」

 劇団にとっての「母」であり、気づけば一平にとっても「お母ちゃん」になってしまっていた。手狭な借家での慎ましい生活から察するに、おそらく一平は座長としての給料もほとんど酒代に費やしていたのだろう。それでも文句の一つも言わずに、かいがいしく身の回りの世話をし、いつでも温かい食事を作り、励まし、一平が少しでもいいホン(台本)を書けるように、劇団がいい芝居をできるように全力を捧げてきた。一平との間に子を授からなかった代わりに、劇団という名の「子」を慈しみ、育てることで、千代自身も救われてきたのかもしれない。ところが、一平が他の相手と子どもを作って、千代のアイデンティティが奪われてしまう。

 互いのことをいちばんよくわかっている千代と一平の関係性だからこその、千代の「決断」がやるせなさすぎる。「親に捨てられた者どうし」だから痛いほどにわかるのだ。一平が自分の子を宿した灯子を捨てられるわけがないということを。心の中でいろんなものがガラガラと崩れていくのに、気丈に振る舞おうとする千代が悲しい。杉咲花の抑制と爆発を自在に操る演技に息を呑んだ。

 千代の心情にフォーカスするため、一平に自己弁護めいたことを一切語らなせなかった作劇が潔い。一平は子どもの頃から仮病で舞台を休んだり、青年期には芸者遊びに明け暮れるといった「逃げ癖」のあるこじらせ男として描かれてきた。“瞼の母”であった夕(板谷由夏)と対面し、思わぬ真実と決別を言い渡され、父である初代・天海天海(茂山宗彦)への反骨精神で芝居を続けてきたという“土台”を崩されたときには、全ての台本を燃やして消えようとした。千代との結婚をお披露目した「二代目・天海天海襲名披露」の席で立派な口上を述べた後、脳内で「超えられるもんやったら、わし超えてみい」という父の声が聞こえるほど、いつでも父と比較される定めに苦しんだ。そんな一平が、脚本家としての相方であり、芝居の上での父親代わりだった千之助(星田英利)の引退を機に、重責に打ち負かされてスランプに陥り、自分を慕う若い灯子の膝の上に逃げ込むことは想像に難くない。何も語らずとも、一平の表情が困惑、悔悟、逡巡、躊躇、決意……と一刻一刻変わっていくのが手に取るようにわかった。

 ところで一平の話によれば、一平と灯子が密通したのは「街でばったり会った後のたった一度」とのことだったが、2人のやりとりや、灯子の家に若い女性の一人暮らしには似つかわしくない脇息(主に男性が酒を飲みながら寛ぐ際に使う肘掛)が置いてあったことから、実は何度も逢瀬を重ねていたのでは、と思えなくもない。このあたりをあけすけに語らず、視聴者の想像に委ねるのもこのドラマらしい。

 そして、相変わらずこのドラマは登場人物を裁かない。断じない。だからこそ、千代の悲しみが痛いほどに伝わってくる。鶴亀新喜劇一周年記念公演「お家はんと直どん」の舞台上で一平が台詞として言う「わしは、あの時からずっとあんさんのことを思ってましたんやで」という言葉に重なって、千代の中で一平との思い出が蘇る。他に誰も代わりのいない、かけがえのない2人だった。2人で歩んできたこれまでの年月は紛れもなく本物で、尊いものだ。けれども、物事に「永遠」はない。悲しいかな、人の心は変わる。この無情な摂理、抗えない現実に、千代と一緒に視聴者も心を掻きむしられる。

 もうこれ以上芝居を続けることができない。妻としての真心も、女優としてのプライドもごっそりと掠め取られた。千秋楽までなんとかつとめあげた後、千代は忽然と姿を消す。がらんどうになった茶箪笥の上が映し出され、千代がどんな思いで父母の遺影とガラス玉を荷物に詰めたのだろうと思うと、胸が苦しい。今はどこへでも逃げればいい、好きなだけ悲しめばいい、怒ればいい。そして「本当はどうしたいのか」と、とことん自分の心に聞き続ければいい。

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