【ネタバレ】『エヴァ』は本当に終わったのか 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』徹底考察

庵野秀明と『エヴァンゲリオン』

 さて、「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」と銘打たれた本作は、本当に『エヴァ』を終わらせることができたのだろうか。結論から言えば、『エヴァ』は終わっていない。なぜなら、庵野監督は、旧劇場版が公開された当時の対談の中で、このように言っているからである。

「基本的に『エヴァ』は僕の人生をフィルムに引き写しているだけなんで、僕が生きているわけだから、物語は終わらない」

 庵野監督自身が『エヴァ』をそういうものだと定義づけてしまったのだ。今後、自分の人生経験を作品に投影させれば、それはどうしても『エヴァ』になってしまうだろう。監督作である、『ラブ&ポップ』(1998年)も、『彼氏彼女の事情』(1998〜1999年)も、『式日』(2000年) も、『キューティーハニー』(2004年)も、『シン・ゴジラ』(2016年)も、その意味において『エヴァ』だった。もっと言えば、『エヴァ』以前の作品である、『ふしぎの海のナディア』も、『トップをねらえ!』(1988年〜1989年)も、『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』(1983年)ですら、『エヴァ』であったはずである。

 「何を言っているのか」と思った人は、ここで挙げた作品を観て、もう一度新劇場版を観直せば、おそらくそのことが理解できるのではないか。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の中だけでも、『ふしぎの海のナディア』におけるパリでの空中戦や、『トップをねらえ!』における二人の女性キャラクターによる、夥しい数の敵を掃討する場面がリフレインされているのだ。庵野監督がこれまでの人生で体験してきたこと、表現してきたことが、いまや『エヴァ』の中に還元されている。今後一切『エヴァ』というかたちで作品が作られることがないとしても、庵野秀明が生きている限り、『エヴァ』という列車は否応なく走り続けてしまうだろう。

 また、本作が『エヴァ』として、これまでのシリーズの中で最も優れたラストに行き着いたのか、最高の結末を表現できたかという点について、それをはっきり結論づけることに、あまり意味はないだろう。『エヴァ』が、監督のプライベートフィルムである限り、今回の終局は、あくまで現在の監督の心のありようを映し出したものに過ぎない。「いまの自分が絶対じゃない」とミサトが言ったように、今後、庵野監督の人生の中で、どんな出来事が起きるか、前言を翻すような事態に陥るのかは、まだ誰にも分からないのである。だから、旧劇場版に比べて、単純に今回の作品や作り手がはっきりと「成長した」ものだとは決めつけられない部分がある。真理に辿り着いたと思ったら、思い違いだったということは、往々にしてあることだ。

 アニメーションの手法において、本作や新劇場版全体は、新しい試みを行っていたといえる。目覚ましい変化は、3DCGの本格的な導入である。アクションシーンにおいて、積極的にCGを駆使することで、カメラを縦横無尽に振り回しながら、立体的な活劇を表現することで、アニメーションを次のステージに進ませている印象がある。とはいえ、その技術もまた道半ばだ。旧劇場版における、惣流・アスカ・ラングレーが搭乗した弍号機とエヴァシリーズとの死闘以上の完成度を誇るアクションシーンを、新劇場版は未だに提出できていないのである。これは、まだ3DCGという手法を、90年代における手描きアニメーションの最前線の域に到達させるまでには使いこなせていないことを示している。

 そんな本作の試みにおいて目を見張ったのは、日常シーンにおいても立体的な表現が見られた点だ。第3村で打ちひしがれたまま、食事もできないでいるシンジの口に、アスカが食料を詰め込むシーンでは、おそらくモーションキャプチャーによって、手描きのアニメーションが不得意な、カメラの動きを利用した新鮮で実験的な映像表現が完成されていた。このようなシーンがあることだけでも、アニメーション表現の観点から、新劇場版を製作した意義はあるだろう。

 本作が『エヴァ』というジャンルを離れた一つの映画として、旧劇場版以上のテーマを描き、新しい演出を提出できているかという点については、否定的にならざるを得ない部分もある。本作や、これを含んだ新劇場版が到達したのは、旧シリーズを踏まえた上での“アディショナル”、追加の終局であり、新旧を同時に味わわなければ真価を発揮し得ない。旧劇場版がアヴァンギャルドな出来であったからこそ、本作は旧来の娯楽アニメの文法にのっとった、比較的分かりやすい、より説明的な表現を使用しながら、進歩的なドラマを作り上げているのだ。もし、初めから本作のような演出手法を『エヴァ』が選択していたとしたら、そもそも観客の間で“エヴァの呪縛”が発生することも、新劇場版がここまで注目されることもなかったのではないか。そもそも、最初に『エヴァ』が製作されていなければ、今回の作品の中で全てのエヴァを消し去るという必要もなかったのだ。

 だが、それは庵野監督も織り込み済みなはずだ。本作のコンセプトは、あくまで“再構築”であり、『エヴァ』を使って優れた映画を作るというよりは、『エヴァ』で『エヴァ』を描くという方向性にシフトしているからである。

 確実に言えるのは、シンジやアスカ、レイやカヲル、ミサトやゲンドウなどといった、『エヴァ』の主要キャラクターのポテンシャルや、それぞれの内面の問題が、本作において全て説明されたことで、これらの登場人物を再び描く必要はなくなったということだ。だから、庵野監督の次回以降の監督作品では、『エヴァ』の主要な登場人物は存在しないだろうし、「エヴァ」の名前を使うことも一切ないのかもしれない。その上で、庵野秀明は実質的な『エヴァ』といえる、人生の列車に乗り続けなければならないはずである。そして、我々もまたその旅に、束の間同行することになるのだろう。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
全国公開中
企画・原作・脚本・総監督:庵野秀明
監督:鶴巻和哉、中山勝一、前田真宏
副監督:田部透湖、小松田大全
声の出演:緒方恵美、林原めぐみ、宮村優子、坂本真綾、三石琴乃、山口由里子、沢城みゆき
(c)カラー
公式サイト:https://www.evangelion.co.jp/final.html 
公式Twitter:@evangelion_co

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