『犬鳴村』のスケールを大きく超える恐怖表現 『樹海村』の恐怖の源泉を考察する

 目を見張るのは、『犬鳴村』のスケールをすら大きく超える恐怖表現である。コトリバコの呪いに怯えた響や鳴たちは、寺で箱のお祓いをしてもらうことになる。異界の者を感じることのできる響が、お祓いの様子を見ていると、いつしか彼女の周囲には、この世ならざる者たちがうごめいている。異常を感じた響が寺の建物の外に出ようとした瞬間、寺の境内全体で同じように異様な現象が起きていることにも気づく。このように、飛躍的にスケールが広がる演出があるのが、本作における大きな驚きとなっている。

 同様に、クライマックスにおける溶岩洞での怪異の表現も、これまでの清水監督作品には見られなかったような、大規模なスペクタクルが展開する。それは「Jホラー」というより、ギレルモ・デル・トロ監督の『パンズ・ラビリンス』(2006年)を想起させられるような、一種の「ダークファンタジー」として成立している部分があるように感じられる。さらに、本作の姉妹や母親への愛情がフォーカスされる展開は、『アナと雪の女王』(2013年)のようですらある。

 同時にデル・トロ監督も、アカデミー賞作品賞などを受賞した『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017年)では、中田秀夫監督の『仄暗い水の底から』(2002年)のような、おどろおどろしい水の演出を行っている。ハリウッド映画の製作を経た清水監督は、東洋と西洋の狭間にある立場を自作のなかで昇華することを考えているように思える。そのバランスが、東洋の作品をも愛し、表現をとり入れるデル・トロ監督を、別方向から同じ座標へと導いたのかもしれない。

 とはいえ、清水監督のもともとの才気が発揮されたシーンにも、継続して見どころがある。息を呑んだのは、ある不幸があった人物の妻が、加害者の家族の挨拶を無視して、凍りついたような笑みを浮かべながら扉を閉め、磨りガラスごしに不気味な姿を見せるシーンだ。人が、人を憎むことで生まれる連鎖……本作がたどり着くコトリバコと樹海の真相の奥にあるのが、その構図であるように、この奇妙なシーンでは、呪いというものの本質が、よりストレートに表出されているように感じられる。その意味では、複雑な儀式めいたルールが必要なコトリバコの描写以上に、この一瞬の場面が印象に残る。

 『犬鳴村』も『樹海村』も、怪異の謎を遡っていくと、たどり着くのは被害者の復讐の感情である。それは同時に、加害者の罪の意識が反射したものであるとも考えられる。マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002年)では、アメリカの社会で銃が蔓延し続けている理由の一つとして、黒人に対する白人の防衛意識があるのではないかという考えを紹介している。差別的な白人ほど、自分自身が差別を行ってきたことや、自身の民族が長い年月にわたり、ある人種の人権を奪ってきたということを、じつは心の中でよく分かっているのではないか。だからこそ、自分が踏みつけてきた集団に復讐されるかもしれないという、ヒステリックな妄想が自然に生まれるのではないか。その構造は、日本において、ある集団に対する差別的なデマが蔓延した歴史や、いまもかたちを変えながら同様の問題を抱える社会の状態と重なっているように見える。

 そう考えると、口で伝えられ、妄想や創作が入り混じる都市伝説における恐怖というのは、多くの人々に共通する意識や深層心理が反映したものなのかもしれない。それを映画にする「恐怖の村」シリーズは、まさにホラーというかたちで、日本の歴史を描き、いまの日本社会を表現したものだといえるだろう。そしてそれが、いまの「Jホラー」であるのかもしれない。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『樹海村』
全国公開中
出演:山田杏奈、山口まゆ、神尾楓珠、倉悠貴、工藤遥、大谷凜香
監督:清水崇
脚本:保坂大輔、清水崇
企画プロデュース:紀伊宗之
配給:東映
(c)2021『樹海村』製作委員会

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