『ばるぼら』と『エール』は二階堂ふみの集大成に “静”と“動”を行き来するヒロイン像を探る

フィルムメーカーズ

 新宿駅の地下で美倉(稲垣吾郎)に発見されるばるぼら(二階堂ふみ)の薄汚れた姿は、この世界から捨てられた妖精のようであり、たがの外れてしまった世界に舞い降りた希望の偶像のようでもあり、あるいは、この世界への復讐のために帰還した天使のようでもある。手塚真監督は、新作『ばるぼら』の中で、男性的視点から語られてきた「ミューズ」という言葉が抱えがちな女性崇拝を、ばるぼら=二階堂ふみに託しつつ、圧巻のラストでその偶像=ミューズそのものを破壊する。手塚治虫の原作にはない、このラストによって、ばるぼらの身体は空洞化される。『ばるぼら』には、これまでの二階堂ふみがスクリーンで披露してきた天真爛漫ともいえる「動」の側面と、沈黙によってその場に亀裂を生み出す「静」の側面が極めて有機的な形で表象されている。

『ばるぼら』(c)2019『ばるぼら』製作委員会

 ばるぼらを演じるより前に、二階堂ふみはこれまでも出自を特定させないヒロインを何度か演じてきた。流氷の海から這い上がってくる少女という、衝撃的な始まり方をする『私の男』(熊切和嘉監督/2014年)で、ヒロイン・花(二階堂ふみ)は震災の孤児だった。あるいは、小説家のイマジナリーなヒロイン、赤子を演じた室生犀星原作の『蜜のあわれ』(石井岳龍監督/2016年)を思い出してもいいだろう。

 特に二階堂ふみの代表作の一本といえる『私の男』は、北海道の積雪と流氷の景色が、少女に対してまったく優しさを与えてくれないどころか、常に肌を突き刺すような厳しさを少女に与えているという点において、二階堂ふみがフェイバリットに挙げるロシア映画『動くな、死ね、甦れ!』(ヴィターリー・カネフスキー監督/1989年)の雪の世界に生きる過酷な登場人物に、どこか自分を寄せているようにさえ思える。

 『私の男』の二階堂ふみは、先行世代がこの年頃の女性を演じた際、監督の演出によって、ほとんど無意識に記録されていたフレームの中の「少女像」を、自分がどのようにフレームに記録されるかを逆算し、意識化した上で、演技に向かっているように思える。たとえば、淳悟(浅野忠信)とお互いの指を舐め合うエロティックなシーンにおいての、二人だけの世界でありがなら、誰かに覗かれていることを意識したような表情。淳悟の元婚約者(河井青葉)を悪意があるのかないのか容易には読み取れない少女的な無邪気さで挑発し、最後に「この世の終わりだよ」と捨て台詞のように言い放つ時の虚無。

 撮影時、二階堂ふみはまだ19歳だが、母親の影響で小さい頃から多くの映画を体験してきた(成瀬巳喜男と高峰秀子の作品など)彼女にとって、撮影とは、台詞や所作の意味や意図を理解した上で、どのように自分がカメラの前で「モデル化」されていくか、という過程自体を意識して楽しんでいく作業であるかようだ。このことは、二階堂ふみが自身のことを、撮影現場を支える一つの役割、女優という肩書きよりも「フィルムメーカーズ」という表現の方が好きだ、と以前に語っていたことの裏付けにもなっている。

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