『鬼滅の刃』大ヒットの理由は原作とスタジオの相性にあり? TVシリーズと劇場版の表現から探る
本作では、蒸気機関車の乗客たちが忽然と姿を消すという事件が発生。鬼殺隊はこれを鬼の仕業だとして、隊員を事件が起こった汽車へと送り込むといった物語となっている。炭治郎と禰豆子、善逸、伊之助(いのすけ)といういつもの面々のほかに、鬼殺隊は「柱(はしら)」と呼ばれるトップ9人の剣士の一人である煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)を差し向けていた。かくして炭治郎らと煉獄のチームは、夜汽車のなかで敵を待ち受けることになる。
対するのは、鬼の禍の元凶・鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)の配下のなかでもトップの12体「十二鬼月(じゅうにきづき)」の配下・7番目の序列にあたる魘夢(えんむ)。実力のある鬼が使う血鬼術(けっきじゅつ)によって、炭治郎たちを眠らせ、夢の世界へと送り込む。人間だった頃よりサイコパスだったという魘夢は、人間に幸せな夢を見せた後で、夢を悪夢に変えることで、人間の苦悶の表情を見ながら殺すことが大好き。鬼のなかでは比較的、同情の余地がないキャラクターだ。
炭治郎は、夢のなかで自分の首を刀で斬り落とし自決することで、そんな魘夢の術を破ることに成功する。魘夢は何度も術をかけるが、炭治郎はその度に自決を繰り返し、魘夢の首を狙う。その執念は、サイコパスの魘夢をして、まともではないと口走らせる。夢は次第に悪夢の様相を見せ、夢のなかで優しく炭治郎に接する家族たちが、生き残ったことを責めるようになってくる。
このエピソードは、ダークな展開の『鬼滅の刃』のなかでも、残酷きわまるものだ。とくに自決を延々と繰り返すという異常な描写は、これがいま子どもたちに人気の作品だということを忘れさせてしまうところがある。そして、何度も死ぬことよりも生きることの方がより辛いのだという価値観は、『鬼滅の刃』の本質部分であるように思える。そんな炭治郎を支える信念は、生き残った妹が現実に存在し、彼女を守らなければならないという想いゆえである。
そんな炭治郎の悲壮さに対して、異なる世界を見せるのが、本作の実質的な主役となる煉獄杏寿郎という存在である。彼は、自分の最も大事な人間から教えられた倫理観を引き継ぎ、隊員や乗客を含め人間を一人も死なせないという信念のもと、絶対的な強さを持つ敵との対決に挑む。
鬼は致命傷を受けない限り、身体をすぐに修復することができるし、数千年以上の時を生きることができる。杏寿郎はおそろしいほどの鍛錬によって剣技の冴えを獲得したが、個の人間としての肉体の弱さと、数十年で衰弱する運命を背負っている。だが彼は、人間の強さは精神に宿り、その強さは次代へと受け継がれていくと考える。そして、強い者は弱い者を守ることが責務なのだという信条を持っている。これこそ、現代に生きる多くの人々が強者に対して無自覚的に、ときに自覚的に欲しているものなのではないか。世の中というのは、そうあるべきではないのか。
一方で、信念や倫理を守るために進んで犠牲になるような選択を、“感動”として認識してしまうことには危うさもある。本作では、鬼殺隊を束ねる“お館様”が、これまで犠牲になった隊員たちの墓参りをする、一見慈悲深いと思える場面がある。だが鬼殺隊が、用心に用心を重ね、さらに多くの戦力を後詰めとしていれば、ここまでのピンチに陥ることはなかっただろう。その責任はやはり追及されなければならないし、そもそも入隊の最終選別試験で多くの子どもたちの命がいたずらに失われていることを考えれば、そんな鬼のような伝統を存続させているお館様を、いまさら好意的に描くことは矛盾を引き起こすことになってしまう。