『TENET テネット』徹底解説! “時間の逆行”、登場人物の背景、そしてノーランの哲学まで

『TENET テネット』徹底解説!

 劇中で、“エントロピーの増大”というセリフが現れる。熱力学の用語で、「無秩序化」を意味する言葉だ。それはしばしば、コーヒーに入れたミルクが、次第に混じり複雑な状態になっていく状態に例えられる。ものごとは不可逆的に(後戻りできずに)無秩序化していく。その状況は、いまも広がりつづける宇宙そのものの姿と重なっていく。爆発の力で飛び散って無秩序化していく天体たちが、ふたたび元の、より秩序的な状態に戻ることはない。この考え方は、時間を後戻りさせることができないという証明とされてきた。

 ビッグバンから現在に至る、この星々が広がり続ける運動には、果たして終わりがあるのだろうか。理論物理学者たちは宇宙の運命を考える上で、こんな一つの可能性を示している。宇宙は膨張するだけでなく、膨張と収縮を繰り返しているのかもしれないという説だ。広がりきった宇宙は、ある時点で反転し、収束に向かい、逆に中心に向かって縮んでいくのではないかというのだ。もしそんなことが起こるとすれば、それはエントロピーの減少であり、“時間の逆行”といえるのではないか。

 本作では弾丸だけではなく、人間までもが“回転ドア”と呼ばれる装置に入ることによって、時間の流れを逆に進むことができるという仕組みが明かされていく。そして、もう一度“回転ドア”を通過すれば、再び時間に順行することができる。劇中では見分けがつきやすいように、レッド、ブルーの色を、それぞれ順行者、逆行者に与えている。それは、前述したように星々の運動を基にしていると考えられる。順行時間は、ビッグバン以来の現象として宇宙は広がっていき、逆行時間では宇宙が狭まっていく。遠ざかっていく光は赤く目に映り(赤方偏移)、近づいてくる光は青く感じられるというのが、“光のドップラー効果”と呼ばれる物理法則である。

 また、本作で“陽子”や、粒子・反粒子同士の“対消滅”などの概念を持ち出していることからも分かる通り、ここではミクロの世界が、“時間の逆行”の存在を補強しようとする。これまでに多くの物理学者が、宇宙の法則を全て説明できる“大統一理論”の完成を目指してきたが、そこで障害となっていたのが、極小の世界の物理法則だ。それを研究する“量子力学”といわれる学問では、我々が生活し、普段意識している世界の常識が通用しない。同じ物質が同時に二つの場所に存在できたり、二つの状態が重ね合わされた、不確定的なかたちで存在することもあると考えられている。

 このような奇妙な物理法則は、学者の頭を悩ませ、大統一理論の完成を妨げることになったが、同時に人類にとって、これは新たな可能性を示唆するものでもある。例えば、量子力学を応用した量子コンピューターを使うことで、演算速度が驚異的に上がるという結果が出ている。さらに2019年、ロシア、アメリカらの研究者たちは、“アルゴリズム”によって、量子情報のエントロピーを減少させることができるという結果を生み出した。つまり、人為的に局所的な“時間の逆行”を起こすことに成功したのである。本作の“回転ドア”は、この実際の技術を応用し、人間が量子の力をさらに利用することができるようになった未来の人々によって開発されたものなのである。

 さて、なぜ“時間の逆行”という技術が、本作における未来の人類にとって重要なものとなったのか。それは劇中で述べられているように、地球環境の変化が大きく関係している。人間の生産活動による温室効果ガス排出や、有毒物質の発生によって、世界各地の気候や海洋に深刻なダメージが与えられ続けていることは、現在の世界でも問題となっている。多くの人々や団体が、未来への懸念を訴えているものの、事態は不可逆的に悪くなり、未来の地球はとうてい人の住めない環境となっていた。そのため未来人は時間を逆行することで過去に向かって生き延びることを決めるのである。そのために利用するのが、劇中でケネス・ブラナーが演じるセイターという男だった。

 未来人にとって問題は、任意の時間に一瞬でジャンプすることができないという“回転ドア”の使い勝手の悪さだった。つまり、1ヶ月前の時間に行くためには、逆行状態で1ヶ月過ごす必要があるのだ。さらに不便なのは、酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すという、人間にとって生命維持に必要な行為が、逆行状態だと困難になるという事実だった。多くの未来人たちが過去に生きるためには、回転ドアは不向きなのである。

 そこで局所的ではなく、地球規模、もしくは宇宙規模のスケールで時間を逆行させるという“アルゴリズム”を、まだ地球に人が住むことのできる状態の時点で発動させるという発想が生まれてくる。未来人たちがその時点まで逆行状態で辿りつくことができれば、そこからは反転した時間を順行し、生存することができるだろう。問題は、世界全体が逆行すれば、過去の順行者たちは逆行状態に塗り潰されていく時間のなかで死滅していくのではないかということだ。そこで起こることが予測されるのが、“祖父殺しのパラドックス”である。過去の人間たちが死滅すれば、未来の人間たちの存在そのものがなくなるかもしれない。

 だが、過去の人間たちの大量死滅やパラドックスなどに構わず、自分たちの現在の生を優先させる、“ならず者”のような未来人たちの姿は、現在の我々の生き方と重なるところがある。我々人類は、「未来など知ったことか」という態度で大規模な生産活動を続けて地球環境を悪化させることでツケを子孫にまわし、自分たちの未来を破壊している。そのようなモラルを引き継いだ未来人たちは、今度は“アルゴリズム”を利用し、“過去など知ったことか”と、過去の世界を破壊していくのである。それは、汚染された世界を押しつけられた未来人たちの逆襲ともいえよう。

 しかし、未来の人々も一枚岩ではない。ならず者としての未来人と、それを回避しようとする、より理性的な未来人との対立が、セイターと名もなき男の代理戦争として、現在で展開されるというのが、本作の内容なのだ。劇中で起こる戦闘の背景には、このように気が遠くなってくるようなスケールの事情が用意されているということになる。

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