『借りぐらしのアリエッティ』は決して“失敗作”ではない ダイナミズムと対極のささやかな世界の魅力

被写界深度の浅い世界

 原作者のメアリー・ノートンは、『床下の小人たち』を思いついたのは、「近視眼だったからだと思う」と綴っている。

「ほかの人たちが、はるかな丘や、遠くの森や、空かけるキジなどを眺めているとき、子どものころのわたくしは、わきをむいて、近くの土手や、木の根、もつれあった草むらなどに見いっていたのです」(『季刊 子どもと本、2010年4月号』P14)

 本作が広い世界を夢想するファンタジーではなく、極めてミクロな視点で日常の中の非日常を見つめる姿勢なのは、原作者のそんな原体験と通底している。

 この近視眼という言葉は、映像化した際の一つのキーワードと言える。本作の映像はジブリ作品としては珍しく被写界深度が浅い。映像演出担当の奥井敦氏は、昆虫のドキュメンタリー番組のような接写で撮っているイメージで小人の世界を見せる選択をしたとインタビューで語っている。本作以前のジブリ作品の映像は、基本的に手前のものも後ろの背景にもピントを当てたパンフォーカスが多いのだが、本作ではあえて小人の世界を描くために被写界深度の浅い映像を随所に取り入れている。まさに原作者の近視的な見方を映像的に取り入れたと言える。(参照:『ジブリの教科書16 借りぐらしのアリエッティ』P124文春ジブリ文庫。『少年と少女の一週間 借りぐらしのアリエッティガイドブック』P93、角川書店)

 被写界深度を浅くする手法はしばしば、箱庭的な狭いコミュニティの純化された関係性を描く際にも用いられる。アニメ作品なら山田尚子監督の『リズと青い鳥』、実写映画なら三木孝浩監督の諸作品あたりをイメージするとわかりやすい。

 この被写界深度の浅い世界は、米林監督が本来有していたセンスを発揮させる重要な素地にもなっていたのではないか。広い世界をダイナミックに飛び回る宮崎アニメに対して、米林作品はミクロな箱庭的世界を美しく見せることに長けているのだ。

少女漫画の耽美さをジブリに持ちこんだ

 米林監督は、スタジオジブリ入社のきっかけになった作品として『耳をすませば』を挙げ
ている。

 『耳をすませば』はジブリ作品としては珍しく少女漫画を原作にした作品だ。原作漫画をかなりジブリ流にアレンジして少女漫画テイストは薄れてはいるが。

 米林監督は小さいころ、少女漫画を愛読していたそうだ。中学生時代に『りぼん』の愛読者だったらしく、少年漫画よりも少女漫画を読む機会のほうが多かったのだと言う。

「読んでたのは、『ときめきトゥナイト』の池野恋さんや、『ポニーテール白書』の水沢めぐみさん。髪の毛や目の中の表現とか、上手なんですよね。
<中略>
『りぼん』以外だと、『花とゆめ』で、日渡早紀さんの『ぼくの地球を守って』とか、『うまいなあ』と思って読んでいました。美内すずえさん、山岸涼子さん、萩尾望都さん、竹宮恵子さん・・・・好きですね」(『米林宏昌画集 汚れなき悪戯』P120、2014年、復刊ドットコム)

 本作は小人のアリエッティと、心臓の病を抱える薄幸そうな少年、翔とのつかの間の交流がメインプロットに置かれている。冒険活劇テイストの宮崎駿の作風とは明らかに異なる志向性だ。実は全5巻の原作には、冒険活劇テイストのエピソードもふんだんにあるのだが、映画化にあたってそれらの要素は強調されない。

 本作は、広い世界を大冒険する大きな物語ではなく、一人の少女と少年、そしてその家族にまでしか人間関係が広がらない小さな物語だ。それは少年漫画よりも少女漫画の世界に近い。脚本を書いた宮崎駿も本作に萩尾望都の『トーマの心臓』のイメージを入れ込もうとしていたと共同脚本の丹羽圭子は語っている(『ジブリの教科書16 借りぐらしのアリエッティ』P128、文春ジブリ文庫)。

 その選択は、少女漫画を愛読していた米林監督を意識してのことなのかもしれない。もし、宮崎氏本人が監督するつもりだったら、気球に乗った小人たちが屋根裏から飛び出すようなエピソードを描くのではないだろうか(実際に原作にそういうエピソードがある)。

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