映画『キャッツ』の悪評は妥当なのか? 小野寺系が作品の真価を問う
事態を複雑にしているのは、本作の悪評には「ストーリー性が希薄」だという反応もあるということだ。それが、異質な見た目とあいまって、ひどい映画だという結論に導かれることになってしまったのかもしれない。だが、そもそも、『キャッツ』という舞台作品自体が、そういう面を持ったものなのである。
本作のストーリーは、ロンドンの片隅のゴミ捨て場に住む、自由な野良猫たち“ジェリクルキャッツ”の抗争の行方と、長老猫が天上へと昇る一匹を決めるといった、ファンタジー色の強い独特なもの。人気の舞台だからと、『キャッツ』の舞台を観た観客が、「良さが分からなかった」と語るケースは少なくない。それは、次々にいろいろなジェリクルキャットたちが紹介されていく構成が退屈だと感じてしまうからだろう。そう思うのは、物語には山場が与えられた展開が続き、登場キャラクターはすべて、ドラマを転がすような役割を担うべきだという先入観があるためではないか。
とくに映画版となると、そのような既成概念は強くなりがちだ。とはいえ、その意味で映画版は、フランチェスカ・ヘイワード演じるヴィクトリアを主人公に据え、彼女の視点を中心とすることで、本作をドラマ性のあるオーソドックスな脚本に近づけるといった工夫が施されている。
しかし、本作が舞台を基にした『キャッツ』である以上、もともとの魅力を受け継ぐところもなくてはならない。そうなると、観客の側もそれなりの歩み寄りをしなければならなくなる。抽象的な物語を、そのまま抽象的なものとして受け入れたうえで、歌やダンスそのものを、できるだけ純粋に鑑賞する態度が必要になるはずだ。もともと映画という表現媒体は、そのような舞台の価値観をも包含してしまえる、ふところの深いものであるはずだ。
そして、そもそもの基には、子ども向けの詩集とはいえ、T・S・エリオットの難解な哲学が下敷きになっているのである。それを理解せずに甘く見たまま鑑賞したとしても、誤解が生じたまま評価することになってしまうのではないか。
さて、それではこれまでの理解を前提に本作を見ると、どうなるのだろうか。まず、トム・フーパー監督の資質から考えていきたい。前述したように、『レ・ミゼラブル』において、顔をアップで撮るという、ミュージカル映画としては異質な演出が、公開時に賛否を呼んだのが印象的だった。だがその特殊な試みがミュージカルへの冒涜的なものだとする意見は、いまではそれほど支配的ではないだろう。『レ・ミゼラブル』は、良い意味でミュージカル映画の枠を壊した部分がある。その意味では、本作もフーパー演出は引き継がれている。
面白いのは、ロンドンの路地を表現したセットの工夫である。猫の大きさを考えると、セットは相対的に大きく作らなくてはならない。しかし、実際の比率で大きくしてしまうと、今度は背景が引き立たなくなってしまう。顔を大きくとらえるトム・フーパー演出においては、セットを人間と猫のサイズの中間くらいに抑えるのが、ベターな構図を作りやすいのだ。
このような、映画と舞台における差異において、それを異物のまま表現しているもころと、両者の壁を乗り越えようとする挑戦が、複雑に絡み合っているのが、本作の最も興味深い点である。もちろんそこには、見た目の問題も含まれているだろう。
だが、『レ・ミゼラブル』と比較したとき、『キャッツ』という題材が足を引っ張っているところもある。ネックとなるのがダンスシーンである。『キャッツ』ではどうしてもダンスを見せることが重要になるため、カメラが引くことも多くなってしまう。そうなるとトム・フーパー監督の特徴が見えづらくなるため、本作は『レ・ミゼラブル』ほどにはフーパーの独自性が突出しているように感じられないところがある。仕方がないとはいえ、それに代わる魅力を創出できていないという点おいては、監督の“引き出しの少なさ”を示しているのかもしれない。