『スカーレット』の骨格を担う大島優子と林遣都の存在 常治の“死”が物語にもたらしたもの

『スカーレット』の骨格を担う大島優子と林遣都の存在 常治の“死”が物語にもたらしたもの

 北村一輝演じる常治が死んだ。今までの悪行の数々を帳消しにするほど、無限の愛と不器用な優しさと、可愛らしさと、「男の意地と誇り」を見せつけて「ほな、またな」と逝ってしまった。見送る人々と見送られる人が互いのことを思い、表面上では一生懸命普通を装い、心の中では嵐のように泣いているだろうことがひしひしと伝わってくる。そんな『スカーレット』(NHK総合)らしい、潔く、力強い「死」の描き方だったように思う。

 『スカーレット』は古典的な朝ドラの典型を行くように見せかけて、かなりアグレッシブな動きをするドラマだ。本来ならヒロイン・喜美子(戸田恵梨香)の人生が大きく変えられるはずの大阪編が短いスパンで、家庭の事情により強制的に終わらされるという時点で新鮮だったが、喜美子が恋に落ちてから結婚・出産・親の死に至るまでの展開もハイスピードだった。そう強く感じさせるのは、本来なら1人の女性の人生を描く上で、女優にとってもドラマにおいても「見せ場」になるはずの重要なライフイベント、結婚式・出産シーン・葬式の3点が抜け落ちていたからだ。こちらが恥ずかしくなるほどのラブラブっぷりを見せていた喜美子と八郎(松下洸平)は、週明けには若干倦怠期気味の表情を見せていて、4歳になる息子・武志(又野暁仁)がゴロンと転がりながら画面の中に登場する。

 特にここ何週間というもの、物語は限られた空間、主に川原家の家屋を中心に展開されていた。常治が病院で泣いていた話も、両親の温泉旅行の話も、視聴者は喜美子や八郎と共に、川原家にやってきた誰かが話してくれるのを聞くことでしか補完する方法がない。葬儀の話も彼らの後日談である。ハレとケの「ハレ」は徹底して描かず、「ケ」、つまり日常を描くことによって、人生を描く試み。それがこの『スカーレット』という朝ドラの挑戦なのではないか。

  だが喜美子はどうして、何が起きてもそれをちゃんと受け入れ、前に進むことができるのか。視聴者もまた、月日の流れの急速さと彼らの変化に自然とついていくことができるのだろうか。俳優たちの演技力の素晴らしさに尽きるというのももちろんあるが、喜美子の幼なじみ、照子(大島優子)と信作(林遣都)という「ほんの少しだけ喜美子の先を行く人」の行動と思いが、喜美子と視聴者の道しるべとなって、起こること全てが必然であり「この世の常」として受け入れるべきことなのだということを前もって示唆しているからではないだろうか。

 照子(大島優子)は喜美子の「人生の先輩」である。喜美子より先に父親を亡くし、それを受け入れ前に進む様を喜美子に見せていた。そして喜美子は照子の出産に立ち会っている。「子供生まれるとまた変わるで、夫婦の関係」と言う70話の台詞そのままに、照子と夫・敏晴(本田大輔)の関係は、登場するたびにはっきりとした変化を示していた。

  一方の信作は、子供が大人になることで変わっていく父親と子供の関係の理想的な形を示すと共に、死生観を語る人物でもある。彼は祖母の死を通して「人は簡単に亡くなる」「せっかく生きてんのやったら、(アリ見てんのもええけど)上も見たろ」と思ったと言う。それがこのドラマの根底とも言える死生観だ。その言葉通りにドラマは、常治の死後の時間の多くを、悼む時間より、生きている人々が「これから」を見据え、新たな関係性を築くための時間として使っている。

 喜美子と八郎の結婚式の代わりに慌しく行われた、直子(桜庭ななみ)の爆発気味のパーマネント頭を筆頭に、感動的というより笑いを誘う記念撮影は、常治の死によっていっそう重要な儀式に変わる。大阪時代の喜美子が「家、カメラはないけどラジオはあります」と言っていたことからわかるように、カメラを買う余裕さえなかった川原家にとって、これが初めての家族写真だったのではないか。

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