『お嬢ちゃん』で魅せた名演 萩原みのり、ガールズジェネレーションを牽引する新世代の女優に

新世代の女優・萩原みのりの名演

 混沌を描く映画、という意味で、僕は今年上半期の話題をさらった今泉力哉監督の映画『愛がなんだ』を思い出していた。『愛がなんだ』という映画が「相手が自分を愛さないと知りながら、人はなぜ他者を愛してしまうのか」という魂の混沌を描いた映画だとしたら、『お嬢ちゃん』は周囲の男性から美人として欲望される一人の女性がなぜこの世界の男を誰一人愛せないのか、衣食住足りるこの国でなぜ魂の飢えに苦しむのかという混沌を描いた表裏の作品に見える。

 萩原みのり演じる主人公は確かにこの映画の中で何度か激しい怒りを見せるのだが、それは社会問題を解決する正義というより、心の器をなみなみと満たした感情の混沌がついにダムの決壊のように零れ落ちた結果だ。発露してこぼれた怒りは、コップを満たす複雑な感情のほんの一滴であり、残りの言語化できない感情は主人公・みのりの魂の器をまだいっぱいに満たしている。この映画は言いたいことをズバズバと言うヒロインに観客が留飲を下げる映画ではなく、言語化できない留飲、言葉にできない無意識を抱えながら、それでも生きていく女性について描いた映画である。萩原みのりの演技は観客にはっきりとそれを伝えることができる。手足を投げ出すような歩き方も、かすかな眉間のシワも、台詞とは別の身体言語として主人公の複雑な混沌を映し出す。 

 率直に言って今になれば、これほど力のある若い女優が今までなぜもっと決定的に大きな注目を浴びなかったのかは不思議だ。もちろん萩原みのりは今までいくつもの映画やドラマに出演し、映画『ハローグッバイ』では久保田紗友とダブル主演もつとめている。出演作を見返すと、今回の主人公のようにインパクトのある役柄でこそないが、商業映画の要求にプロの役者として応える高い演技力を見せている。それでも本人が『映画秘宝』11月号で語るところによれば、同世代の女優たちの活躍にコンプレックスを抱え、新作映画のキャスト発表から目を背けるような日々があったという。力のある者にいつも光が当たるとは限らない。でもたぶん、その日々はもう終わる。

 新宿K'sシネマで上映中の三週間限定上映には今泉力哉監督が駆けつけて二ノ宮隆太郎監督と対談し、寄せ書きに映画への賛辞を書き残して行った。『お嬢ちゃん』の予告編には今泉監督による「こういう映画をつくりたい。いつか必ず。その時は二ノ宮隆太郎と萩原みのりをキャスティングして」というコメントが流れる。雑誌やWEBサイトには彼女のインタビューが掲載され、すでに多くの監督や関係者の注目が集まっている。ゴルディアスの結び目のように何重にもからまったこの社会に生きる魂の混沌を描く映画監督たちにとって、萩原みのりの演技はその混沌を語り、解きほぐすための新しい語彙だ。πという記号が小数点以下を何万ケタも記述することなく円周率を扱うことを可能にするように、萩原みのりは誰もが抱えながら正確に言語化することのできない混沌を記述するための代数として、映画の中で自分自身を証明することができる。

 10月5日の新宿K'sシネマ『お嬢ちゃん』上映には、二ノ宮隆太郎監督と並んで萩原みのり本人が上映後の舞台挨拶に登壇した。映画の中で演じた「みのり」に比べ、髪型を変え、劇場の満席を喜ぶ主演女優の萩原みのりはとても楽しそうで、そして嬉しそうに見えた。映画の役と本人の差異は、映画の中の「みのり」が素のまま労せず演じた役ではなく、繊細に構築された演技であったことを観客に示していた。客席の質問に萩原みのりは「他の演じてきた役に比べて、みのりという役は自分という幹を枝のように伸ばして演じた役だ」と答えた。たぶん「みのり」は萩原みのりの一部でありながら、彼女のすべてではないのだろう。映画界に共有された「俳優・萩原みのり」という新しい言葉は、映画の中の「みのり」を語義の1つに含みながら、まだ見せていない多様で広い意味を持つように見える。もうすでに、その名前は彼女一人の固有名詞ではなく、映画が獲得した新しい形容詞として映画ファンの間を飛び交い、そしてやがては社会の中に流れ始めるだろう。

 萩原みのりの公式ツイッターでは、その日の衣装で楽しげに舞う彼女の動画を見ることができる。黒いエレガントなロングドレスに、足を痛めるハイヒールやパンプスではなく、スポーティなハイカットの白黒スニーカー、というコーディネートが映画女優の舞台挨拶として一般的なのかどうか、ファッションに疎い僕にはわからない。でも、まるでボクサーのリングシューズのようにも見えるその靴は、映画の中で苦闘する女性を演じた主演女優の萩原みのりにとても似合っているように思えた。舞台挨拶で小柄な二ノ宮隆太郎監督が悪童のように露悪的な冗談を言うたびに、そのハイカットスニーカーを小気味よく鳴らしてドン引きのステップバックをしたり、手を上げて質問する観客の方向に踵を帰す主演女優の軽やかなフットワークに、僕は何となく「蝶のように舞い蜂のように刺す」というボクシング界の古い言葉を思い出していた。

 『お嬢ちゃん』にはすでに女性の観客からの共感の声が多く寄せられている。だが「男性の視点も入れなくてはと思った」と語る二ノ宮隆太郎監督の脚本と演出に、「ここは自分の感覚と違う」と感じる女性の観客もたぶんいると思う(二ノ宮隆太郎監督の優れたところは、主人公の周囲の「くだらない」男たちの描き方が実に人間らしくリアルなところで、とりわけ三人組の一人であるにやけたナンパ師を演じた寺林弘達の演技は素晴らしかった)。でも萩原みのりという新しい女優、その演技が含むメッセージはたぶん、映画のストーリーを越えて多くの人に響くと思う。すでに多くの名を成した男性監督たちが萩原みのりに注目し、今泉力哉監督の次回作『街の上で』の出演も決定しているが、山戸結希監督のプロデュースによる短編映画オムニバス企画『21世紀の女の子』で競作した気鋭の女性監督たちも彼女を放ってはおかないだろうし、「私ならこうは書かない、萩原みのりをもっと生かせる」と思う女性クリエイターは多いはずだ。萩原みのりの演技は彼女たちの物語を語るために現れた新しい語彙であり、女性の心の影を描くための深い色彩を持った新しい絵の具なのだから。憎まれ口を叩きながら「どんどん俺の手の届かないところに行くんだろうな」と舞台挨拶で笑う二ノ宮隆太郎監督はそれを予期するように、まるで萩原みのりに舞台の上でハチが刺すように打たれて、来るべき未来の女性監督たちに自分が見いだした主演女優を受け渡そうとしているようにも見えた。

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