『お嬢ちゃん』で魅せた名演 萩原みのり、ガールズジェネレーションを牽引する新世代の女優に

新世代の女優・萩原みのりの名演

 一人の俳優の名前が世に知られることは、社会がひとつの語彙を獲得することに似ている。マリリン・モンローやジェームス・ディーン、ジョーカーを演じ死んでいったヒース・レジャー、松田優作や萩原健一、山口智子や窪塚洋介という俳優の名前は、時にその個人の固有名詞であることを超えて、いつしか社会の中で「それがどのような人間であるか」を説明する形容詞として使われ始める。

 二ノ宮隆太郎監督による映画『お嬢ちゃん』は、萩原みのりという1人の若い女優の名を多くの観客に知らしめることになった。映画『枝葉のこと』で知られる二ノ宮監督はスカパー!のドラマ『I"s』をきっかけに萩原みのりを知り、彼女を主演にして映画を撮ろうと決意したと語る。主演女優に名指された萩原みのりはその時所属していた事務所を辞め、女優を続けるか、それとも故郷に帰るのかの選択に迷っている状態だった。

 映画『お嬢ちゃん』は「みのり」という主演女優と同名の1人の女性を描いた映画である。父親に対する葛藤を抱え、祖母と鎌倉で暮らす21歳の女性。映画はその主人公の社会への違和感、不適応を主題に描かれていく。映画を宣伝することは元々簡単なことではないが、とりわけこの映画を言葉で説明することはとても難しい。「どいつもこいつもくだらない」というコピーで、社会に物申す女の物語、と説明する映画の宣伝に嘘はないし、間違ってもいない。映画冒頭で萩原みのり演じる主人公が友人を性的被害に合わせた男に詰め寄るシーンはフェミニズムや#MeTooの文脈と明らかに重なる。

 しかし映画は、主人公みのりの人物像、そして周囲に複雑な陰影を加えていく。エンターテインメントの中でなら、女性が悪い男を爽快にやっつける物語は定番と呼べるほどいくつも存在する。格闘技、あるいは法律知識を用いて可憐な女性が悪漢に勝利することはフィクションの中ではたやすい。しかしこの映画はそうした虚構のガス抜きを目的にしていない。描くのは現実の中でガスが蓄積する構造、その曖昧で混沌とした社会のありようである。キャプテン・マーベルやワンダーウーマンのようなスーパーパワーを持たず、暴力への恐怖を抑えながら、見上げるほどの大男に謝罪を迫る主人公と怒声で返す男の険悪な雰囲気に、被害をみのりに訴えた友人はもういいと彼女の袖を引く。映画の中で状況は常に混濁し、その複雑さと曖昧さの中で主人公みのりは翻弄されていく。

 萩原みのりという21歳の女優の演技力の高さは、その社会の曖昧さに呼応するような主人公の内面の表現の複雑さ、繊細さに現れる。見上げる大男と対決する場面も、優しい祖母のジェンダー観に反抗する場面にも、萩原みのりの演技は言葉として発音するセリフの上に、言葉にならないもうひとつの無意識の情報を、声や身体の言語として重ねていく。暴力に怯える本能と、暴力に対する怒り。優しい祖母を傷つけたくない気持ちと、その抑圧に対する反発。言語化された台詞と言葉にならない感情の2つが、一人の女優の中で和音のように重なって1つの重層的な演技になり、物語は曲がりくねる川のように流れていく。

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