オダギリジョーの“わがままでぜいたくな”一作 『ある船頭の話』に込められた現代社会への問い

 俳優のオダギリジョーが、自身初の長編監督作『ある船頭の話』を完成させた。「俳優をやりながら片手間に監督業に手を出していると思われるのも嫌だったし、俳優だから撮らせてもらえる状況に甘んじるのもすごく失礼に思った」とオダギリは語る。シナリオを書いてから10年ほど放置していたのだという。2年前、ウォン・カーウァイ監督『恋する惑星』『花様年華』などで知られる撮影監督クリストファー・ドイルの監督作『宵闇真珠』(2017)に出演した際に、ドイルから「お前が監督するなら俺がカメラをやる」と言われ、それが製作開始の引き金となった。

 橋の建設工事が進む山間部の川。トイチという名の船頭(柄本明)が長年一人で渡し舟を漕ぎ、村人や街からの来客を運んできた。「橋が完成すれば、便利になるよ」。乗客たちはトイチの心情を気にもかけず、そんなことを放言する。この映画は驚くべきことに、舟の上と、両岸の狭い範囲だけでロケされている。2時間17分という決して短くない上映時間のあいだ、私たち観客はただただ渡し舟の緩慢なすべりに身をゆだねていればいい。陸(おか)という陸はひたすら不吉な空間にすぎないのだから。時代ははっきり説明されないものの、明治後期あたり。トイチが舟を漕ぎながら見聞きする乗客たちのよもやま話、噂話、憎まれ口は、客が向こう岸に着けば泡のように消えてしまい、代わって虫や鳥の鳴く声、水の流れる音、風の吹く音、草木の揺れる音があたりを支配する。ロケーション条件はミニマリズムだ。

 この映画の目的は、ミニマリズムの条件を温存したまま、幻想、幻視、できごとをちょろちょろと噛ましつつ、陸(おか)の不吉さがいつのまにか防ぎようもなくあたりに立ちこめた状態を創り出すことにある。闖入によって視線の劇構造は、むしろがぜん活気を帯び始めるのだ。最初からある闖入物は、橋の建設工事で、橋の完成はトイチをお役御免にするだろう。そして工事の進捗につれて、水質も悪化しつつある。ロケ地は新潟県の阿賀野川。古来より清冽な水で流域の住民に恵みをもたらしてきたが、この映画の舞台となる明治年間から数十年後の高度経済成長期に、工業廃水により水俣病事件が発生したことで有名になった川だ。オダギリジョーは、ただ単に風光明媚さだけでロケ地を選んだわけではあるまい。阿賀野川の清冽さ、美しさと共にその苛酷な歴史的記憶をも、この映画の中に併吞しようとしたのではなかったか。

 この映画最大の闖入者は、深傷を負って上流から流されてきた少女、おふう(川島鈴遥)である。トイチの手当によって息を吹き返したおふうは、トイチの小屋に居つく。ワダエミによる衣裳が大胆で、おふうの緋色のチャイナ服(のようなもの)はまるで1980年代イエロー・マジック・オーケストラのコスチュームだ。荒唐無稽な緋色が差し色された、ただその一点だけで風景の様相は激変してしまう。それまでの岸から岸への往復運動の単調かつあいまいだった視線のありようが、突如として掻き乱されていく。老いた船頭と、救助された少女の視線の交錯は、それまでのあいまいなものではもはやなく、眼球と眼球を一本の軸で熱く結びつけ、川の流れをディアゴナル(斜め)に貫いていく。このディアゴナルな視線の発生は深刻な事件性を呼び起こさずにおかないだろう。その予感をトイチは、おふうの名前からさぐり当てようとしている。

「(おふうという名が)もし風という意味ならおもしろいなって言いたかっただけだ。ほら、風向きで水の流れが強くも弱くも、川の性格まで変えちゃうだろ。俺が船頭で、お前が風ってのが、変だなと思っただけだ」

 新藤兼人監督『石内尋常高等小学校 花は散れども』(2008)以来11年ぶりの主演となった柄本明の一挙手一投足がすばらしく、そこには本当にトイチという船頭がいて、トイチが動き、視線を投げ、トイチが声を発している。ただし、オダギリジョーは他の俳優には細かい演技指導はしたものの、柄本明にはそうしなったようだ。「オダギリさんはあまり話さないですね。もっと話しかけて来ればよかったのにと思う時があるけれど、今村昌平監督にもあまり話しかけられなかったな。“大丈夫ですか?”って言ってくれたり言葉遣いは優しいんだけど、やらされることはきついね(笑)」と柄本は言う。いっぽうオダギリの柄本への思いは次のように語られている。

「柄本さんとは何度も共演していますが、心を許してくれている感じがなく、僕はそこが好きだったんです。柄本さんは簡単に言うことを聞いてくれる人ではないだろうし、僕の内面まで見通してくるに違いない。一切の甘えを許さない状況が生まれるのは柄本さんだろう、という結論に至りました」

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