『なつぞら』から「女性と仕事」の今昔を考える 「小田部問題」の現代に通ずるテーマ性
京アニとジブリにまでつながる、なつたちの夢
また、その後のアニメ業界では、ネガティヴな慣習だけでなく、むしろ奥山の戦いに追随するようなポジティヴな動きもありました。
たとえば、なつと坂場のもとにやってきたマコさんは、第122回で自分が新しく立ちあげる「マコプロダクション」の理念について、「そこはね、女性のアニメーターが母親になっても安心して働ける場所にしたいと思ってるの」と語ります。この場面について、ネット上では、1981年に、八田陽子さんが近所の主婦を集めて仕上げの下請会社として設立した京都アニメーションを髣髴とさせるというコメントが溢れましたが、この時期には京アニに限らず、スタジオキャッツなど、同様の経緯で発足したアニメ会社がほかにもありました。スタジオキャッツを設立した工藤秀子さんは、両親の介護をしながら、自宅で細々と仕上げの仕事を個人請負でするうち、周辺の主婦が集まってきて、それでスタジオを作ったといいます。いわば奥山となつが60年代に見た夢は、現代日本のポップカルチャーにおける「優しさ」や「繊細さ」の象徴となった京アニの歩みにまで遠くつながっていたのです。
そして他方では、奥山の思いと戦いを間近で見ていた彼女の後輩アニメーターだった宮崎駿は、ある意味でそれを後年の自らのアニメーションの表現にも結実させていきます。そう、『魔女の宅急便』(1989)のキキから『紅の豚』(1992)のピッコロ社、『もののけ姫』(1997)のタタラ場、『千と千尋の神隠し』(2001)の油屋まで、宮崎アニメには(ときに男性以上に)「生きいきと働く女性たちのコミュニティ」が繰り返し描かれるからです。奥山の姿は、いまや世界に誇る宮崎アニメの作品世界にも少なからず影響を与えたといえるでしょう。
ともあれ、そんな奥山も2007年に70歳の若さで亡くなりました。当時、宮崎はジブリで『崖の上のポニョ』(2008)を製作中だったのですが、じつは奥山の死について、宮崎が語っている映像が、NHKが放送したドキュメンタリー「プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル」(現在はDVD『プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル 宮崎駿の仕事』で観ることができます)に記録されています。彼は、いつものように作画机に向かいながら、側にやってきた色彩設計の「ヤッチン」こと保田道世と、「奥山さんが亡くなったんですよ。小田部が黙ってたの」、「ショックだよねえ」とふたりでため息交じりにうなずきあい、その後、ジブリの屋上で真っ赤に染まる夕焼けを眺めながら、「はああー…。死んじゃうと、夕焼けも見られないねえ…」と感慨深げに呟いています。
そこで宮崎とうなずきあっていたヤッチン(伊原六花演じる、なつの親友の森田桃代のモデルと思われます)も、東映動画時代からの「戦友」として宮崎の創作を最後までサポートし続け、それから9年後に77歳でこの世を去りました。なつと結婚した坂場を思わせる宮崎の盟友・高畑もまた、昨年亡くなりました(現在、東京国立近代美術館で開催中の「高畑勲展――日本のアニメーションに遺したもの」には奥山の描いた原画も多数展示されています)。
『なつぞら』の時代から半世紀以上の歳月が経過し、ドラマのなかでは「かみっち」と呼ばれる神地に相当する、今年78歳の宮崎は、いまも新作アニメーション製作のために机に向かっています。『なつぞら』の物語と、そのヒントとなったと思われる昭和のひとびとのそれぞれの人生の軌跡は、女性も男性もともに支えあいながら「働くこと」の意味について、令和の時代のわたしたちにも変わらない問いを投げかけているかのようです。
■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter