フィリップ・ガレルは“小さな世界”に囚われた作家ではないーー『救いの接吻』日本初公開に寄せて
『つかのまの愛人』の娘と父の愛人の主体的な共闘関係を目の当たりにした後で、ほぼ30年前の『ギターはもう聞こえない』にある妻と愛人の対峙の場を見ると、(なんとまぬけな言い方だが)やはり感慨深いものがある。『救いの接吻』革命の時代、闘士(ヒーロー)をめざし社会を変えようとしたと振返る愛人は、その時代がもうここにはないことを噛みしめつつ、愛する男と共に闘い夢を見た同志としての自負と優越感とを目の前の男の妻にやわらかに投げつける。両手を広げていれば名声も夢も理想もその手の中に飛び込んでくる、そう信じ得た時代、でもしっかりと抱きとめていないと夢も理想も生活に、現実に奪いとられてしまう――と苦い台詞を少し前に置いてガレルはもう闘士ではいられない自身と愛人の今を哀しく、酷く、だからやさしく噛みしめている。そうしつつ生活の重さを体現するような妻、その凡庸さの愛おしさに諦めにも似た称賛の眼差しを注いでいく。そんな場面の女ふたりはあくまでガレルの眼差しを、記憶を映す存在として忘れ難く輝いている。そこに『つかのまの愛人』の女ふたりの在り方との優劣をつけるつもりは毛頭ないが、みごとに“私”の世界を完結させていたガレルの映画が時を経て辿りついた最新作の場所、その隔たりをあっけらかんと踏破している様にはやはり胸打たれずにいられない。
そうしてみると宿命のヒロイン、ニコの死に接し、その直後に彼女に捧げて撮られた極私的ラブストーリ―として公開当時はそのことにばかり気を取られ見落としていた『ギターはもう聞こえない』の、いくつもの滋味が浮上してくる。例えば友人となごむ主人公(ガレルの分身)が男と海(ラ・メール)か、男とお袋(ラ・メール)かとダジャレをいいあう何気ない始まりが「お袋みたいなことをいう」と妻に捨て台詞をぶつけ扉が閉ざされる終幕部分と鮮やかに韻を踏むように対置されていること。無論、それはユスターシュ『ママと娼婦』を想起させもするだろう。が、もっと大事なこととして気づくのは、映画がニコ以上に母/妻ブリジット・シィというガレルのもうひとりのヒロインに、生活の醜さを美しく盲信しているひとりの重みに、圧倒的に見惚れていることだ。
前年に撮られた“家族映画”『救いの接吻』でまさに映画と暮らしの狭間に置かれた夫婦をガレルと共にものしたシィ、実の息子ルイと父モーリス共々、役と現実の二重性をも生きる、その意味では実存的な問いに満ちた映画をまんまと愚直な生の重みで支配してみせるこの女優、妻、母、女の興味深さはどうだろう! 母という、実の所はガレルの映画の肝心要ともいえそうなテーマ共々、再評価してみたい知性をひけらかさない知的女優だ。彼女と同じ顔した息子や娘がガレルの映画に主演する時、影のようにシィの存在も揺らめき立つ。ガレル映画を支える亡霊はニコだけではないのだと思い知る。
何はともあれ私映画、家族映画、小さな世界に囚われているかに見えたガレルの映画の大きさを、新旧作合わせて吟味したいと思う。
■川口敦子
映画評論家。著書に『映画の森 その魅惑の鬱蒼に分け入って』、訳書に『ロバート・アルトマン わが映画、わが人生』など。
■公開情報
『救いの接吻』
東京都写真美術館ホールほかにて全国順次公開中
監督・脚本:フィリップ・ガレル
出演:ブリジット・シィ、フィリップ・ガレル、ルイ・ガレル、アネモーネ、モーリス・ガレル、イヴェット・エチエヴァン
台詞:マルク・ショロデンコ
撮影:ジャック・ロワズルー
編集:ソフィー・クサン
音楽:バーニー・ウィレン
1989年/フランス/83分/モノクロ/原題:Les Baisers de Secours
『ギターはもう聞こえない』
東京都写真美術館ホールほかにて全国順次公開中
監督:フィリップ・ガレル
出演:ブノワ・レジャン、ヨハンナ・テア・ステーゲ、ミレーユ・ペリエ、ヤン・コレット、ブリジット・シィ
脚本:フィリップ・ガレル、ジャン=フランソワ・ゴイエ
台詞:マルク・ショロデンコ
撮影:カロリーヌ・シャンプティエ
編集:ソフィー・クサン、ヤン・ドゥデ
音楽:ファトン・カーン、ディディエ・ロックウッド
1991年/フランス/98分/カラー/原題:J’entends plus la guitare
公式サイト:http://garrel2019.com