宮台真司の『A GHOST STORY』評(前編):『アンチクライスト』に繋がる<森>の映画

宮台真司『ア・ゴースト・ストーリー』評前編

この社会が根本的に間違っている理由とは

そして実際にそうなります。しかし十年前のこの作品の凄さは、「キリスト的/反キリスト的」という古代ギリシャ文献学者ニーチェ以来知られるようになった概念的な図式に、以下の多様な脱概念的な図式をこれでもかと重ね焼きにしたこと。その結果、キリスト教云々を超え、「<世界>はそもそもどうなっているか」という存在論的ontologicalな探求として、一つの高みに達しています。

 男   /女
 草原  /森
 輪郭あり/輪郭なし
 屹立  /癒合
 離散体 /連続体
 光   /闇
 太陽  /月
 農耕  /狩猟
 一神教 /アニムズム
 乾燥  /湿気
 風が吹く/吹かない
 低粘度 /高粘度
 北(峻厳) /南(雑然)
 一つの声/複数の声
 単一視座/多数視座
 明朗活発/不気味
 言葉以降/言葉以前
 規定可能/規定不能
 計算可能/計算不能
 合理  /不合理(の合理)
 言うこと/示すこと
 なすこと/あること
 能動受動/中動態
 秩序  /カオス
 法   /法外
 <社会> /<世界>(<社会>の外)
 社会常識/変態性愛
 間接性 /直接性
 支配の性/溶融の性
 生への性/死への性
 出生後 /出生時
 胎外  /胎内
 敗北  /勝利
 施術者 /クライアント

 夫が象徴するのが左辺、妻が象徴するのが右辺。夫が施術者(セラピスト)という設定が絶妙です。日本でも1996年頃から自傷ブーム・アダルトチルドレンブーム・エヴァンゲリオンブーム、要は「生きづらい系」ブームになります。生きづらいのは何のせい? 自分のせいだと理解すればセラピー(施療)が要ります。そこから癒し系がブームになりますが、そこに見られる思考停止には仰天します。

 生きづらさは人のせいなのか。社会のせいではないのか。社会がクソだから人が生きづらいのではないのか。治されるべきは人ではなく社会ではないのか。人を治すことでクソ社会を温存するのではないか。クソ社会を何の問題もなく生きられる人こそクズではないのか。実際監督は2007年から鬱になり、鬱に苦しみながら映画制作をしました。作品には社会への呪詛が充ちています。

 「それもあって」映画は、左辺を嫌悪、右辺を賞揚します。治療を施す夫に対し、妻は「エデンの森」に行きたがります。妻は草原に立つのを恐がり、森の暗闇を好みます。森では雛が蟻塚に落ちて鷹に捕食されます。母鹿が膣から濡れた子鹿を覗かせたまま歩きます。狐が突如「カオスが支配する」と叫びます。光量が低い森でカメラは対象の輪郭を捉えられません。全てがヌルヌルしています。

 映画は「妻=右辺」に軍配を挙げる。実は僕らはその意味を2016年に突きつけられています。ゆえに監督の個人的嗜好として片付けられません。トランプ大統領勝利の直接的原因は中絶問題でした。オバマの大統領選では白人福音派の73%がオバマに投票したのに、今回は81%がトランプに投票しました。たった一つの理由が、第3回目の大統領候補討論会の主題となった「中絶」でした。

 日本では僕しか論じませんでしたが、アメリカでは議論が沸騰しました。多くの州で出産直前まで中絶可能なアメリカですが、ヒラリーは一般女性らと会合する番組で、お腹にいるか生まれたかで赤子に人権があるか否かを決めることに違和感を示した女性に、出産寸前でも胎児には権利はないと断言。宗派を問わずキリスト教徒の間で「リベラルには心がない」と大炎上したのでした。

 本当は出産寸前か否かは問題ではない。どこかで区切って「以降は人だが、以前は人ではない」と線引きする営みが問題です。リベラルがどの範囲を仲間と認めてシェアや再配分を賞揚するのかという線引きが絶えず問題になるのと同じです。だからブレグジットでもトランプ誕生でもリベラル政党支持者の多くが排外主義に加担しました。そこでのリベラルは「言葉の自動機械」というクズ。

 本当はリベラルか否かの問題でさえない。誰が仲間かという共通感覚を欠いた人々が大規模定住を営む文明における「普遍的問題」です。胎内スキャンを見れば出産4カ月前で顔の個性が見え、1カ月前には姿勢から仕草まで誕生後と遜色ない。生まれていないなら権利はないという物言いのクズぶりが分かります。だから僕は特別養子縁組制度の普及を巡るイベントに関与してきたのです。

 古くからの森の思考は「普遍的問題」を回避させます。アマゾン先住民ヤノマミ族は古い日本と同じ「子がえし」の営みを今もします。精霊クラウドから訪れた赤子を母が抱けば精霊から人になり、抱かなければ白蟻の巣に封入して燃やして精霊クラウドに返す営みです。そこに存在するコスモロジー(世界観)とそれに相即した連続体感覚が「人か物か」という残酷な裁断を退ける働きをします。

 監督による「エデンの森」への帰還の賞揚が個人的嗜好の問題を超えると述べた所以を話しましたが、別の逸話で補完します。今年9月22日に放映されたNHKドキュメンタリー番組『SWITCHインタビュー 達人達(たち)』が俳優・井浦新とサバイバル登山家・服部文祥をフィーチャーしましたが、そこで服部が狩猟における「獲物(鹿など)へのなりきり」を切口に、主体や身体の概念、総じて境界の概念に疑問を呈します。

 服部は「獲物へのなりきり」を語りつつ、獲物もまた「人へのなりきり」を示すと言います。猟師の武器が刃物か矢か銃器によって鹿は安全距離を変えますが、これを服部は獲物によって「なりきられている」と体験します。この対称性ゆえに、獣を殺して喰う人間が獣に殺されて喰われるのは当然。獣を自在に殺していいのに人を殺しちゃいけないという線引きも理解不能だと彼は言います。

 映画を最後まで見通すと、妻が左右の靴を逆に履かせて幼児の足をわざと変形させた事実、性交中の妻が赤子の墜落の一部始終を見て知っていた事実が示されます。むろん「妻は子を愛していたが愛していなかった」という両義性の隠喩。直接的すぎて強烈です。この両義性は更に、妻が<社会>つまり人倫を生きながら<世界>をも生きる服部文祥的身体である事実の喩にもなっています。

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