宮台真司の月刊映画時評 第11回(前編)
宮台真司の『A GHOST STORY』評(前編):『アンチクライスト』に繋がる<森>の映画
<森>の映画の教科書『アンチクライスト』
<森>の映画の出発点は、人類学的な意味での多視座主義(デ・カストロ)を具体化したテレンス・マリック監督『シン・レッド・ライン』(1999)です。鰐・鳥・先住民・近代人(軍人)の共軛不能な複数の時間を描く多自然主義としても幾度か論じました。今回『ア・ゴースト・ストーリー』を論じる大前提として話したいのが、十年後のラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』(2009)です。
これもストーリーが難解だと揶揄されますが、<森>の映画としては最も分かりやすい。冒頭に話した「モチーフが醸し出す世界観」という点で、複数のモチーフが全て単純な二項図式を形作るからです。それが既に題名において「キリスト・対・反キリスト」として示されます。しかもエンドロール冒頭、アンドレイ・タルコフスキーへの献辞においても「規定可能・対・規定不能」として示されます。
ここには、多くの観客に理解させて誤読を塞ぐための説明的な意図を感じます。そこから推測するに、フォン・トリアーはこの作品を世界観の範型(パラダイム)として提示しています。実際この範型に合点が行けば、数多の監督が「意識せず則っている世界観」を類似(アナロジー)によって分別でき、それらを検討することで「四方域(ハイデガー)に関する今日的直観」を描き出せるでしょう。
注目すべきはウィレム・デフォー演じるカウンセラーとシャルロット・ゲンズブール演じる妻の関係性の変化です。セックス中に赤子が窓から落ちて死ぬ衝撃のプロローグは気を惹くためのオカズなのでどうでもよろしい。「夫と妻は共にキリスト側にいたのが、妻が徐々に変化してやがては反キリスト側に立ち、夫を反キリスト側に取り込む」というプロセスにこそポイントがあります。
ちなみにこれからお話しすることは、映画の鑑賞後に分析した結果ではありません。世界観の範型として作品が提示されていることもあり、観客に一定の経験と素養があれば、リアルタイムに「そのようなものとして(=僕がこれからお話しするように)」体験することができます。だから、これから話すことは、映画を見ながらリアルタイムに僕がそのように体験したことについてです。
物語は単純です。夫妻が性交中、赤子が窓から転落死する[起]。医者がもて余す悲嘆の深さゆえ、セラピストの夫が入院中の妻を帰宅させ施療する[承]。自ら求めて「エデンの森」に滞在した妻が急に変性、嫌悪していた森に同化する[転]。妻に呑み込まれた夫が、殺される寸前(聖痕出現)に妻を殺害、<足萎えのオイディプス>として森から草原に出ると、無数の女達が彼を囲み歩く[結]。
定石通り施術したがる夫は「言葉」の人。施術が効かずに最終的に「エデンの森」に同化を遂げた妻は「言葉の外」の人。でも最初は違います。赤子の葬儀の日に卒倒し悪夢に苛まれる妻に、夫が青い毛布をかけます。伝統のマリア像モチーフ「ピエタ」(ペルジーノ、エル・グレコ、ルーベンス等)。妻が当初「キリストの側」にいたことが示されます(でも後にそうでなかったことも示されます)。
森がエデンと称されるのは出楽園譚を踏まえた喩です。森が「1.人類がそこから出て来た場所、2.出るべきでなかった場所、3.ゆえに帰るべき場所」に重ねられます。ちなみに今日のカトリック神学では、蛇の唆しも、出楽園後に不完全な言語と道徳を与えられた「神に似姿に過ぎない人」が神にも予測不能な仕方で振る舞うのも、「全能神の意図(全能だから予測不能性も意図可能)」です。
ここまではユダヤ教とキリスト教に共通します。ここから先はなぜ映画が反キリストを標榜するのかのヒントになる話をします。マグダラのマリアの逸話(罪なき者のみ石を投げよ)や善きサマリア人(戒律と無関係に思わず瀕死の男を助けた被差別民)の喩に見られるように、イエスは、戒律になければ瀕死の男を放置し、戒律にあれば貧窮した娼婦を罵倒する、浅ましき者を批判しました。
戒律を守りつつ汝らは目で姦淫するとの物言いゆえに、戒律を守る・守らないという行為から何を思うか・思わないかという内面に、イエスが注目点を移したとの説が有力ですが、間違いです。イエスは何より、自発性(損得勘定)より内発性(損得を超える動機)を推奨します。自分だけが救われたいからと、戒律にあれば人を助け、戒律になければ助けないという営みは、利己的で浅ましい。
マグダラのマリアにおける目で姦淫云々も実はそうです。淫猥な気持ちを抱いているくせに、戒律を守らないと救われないとの理由だけで戒律を守り、数多の事情で戒律を守れない貧窮した者に石を投げるような者が、救われることがあろうか。偶然自分に余裕あって戒律を守れるからといって、貧窮ゆえに体を売らざるを得ない者に石を投げるような輩が、救われることがあろうか。
かかるイエスの教えを「内面の道徳を浮上させたのだ」と解する人々が、後にキリスト教を道徳化させます。第2バチカン公会議(1962)が否定した大きな誤りです。イエスが否定しているのはif-thenの条件プログラムです。「救われたいなら戒律を守れ」も「救われたいなら内面を正しく」も同じで、「ちゃんとしていたのだから救え」と救済の為の取引きを神にもちかける瀆神行為なのです。
イエスが推奨するのは「他者を救いたいから救う営み」=目的プログラム。条件プログラムは「道具的instrumental」。目的プログラムは「自体的consumatory」。こう整理すると分かる通り、ギリシャ語で書かれていた福音書が伝える図式は、初期ギリシャ的です。初期ギリシャは「災難が起きぬように」「幸いがあるように」と神に這いつくばって祈る営みを「エジプト的」と呼び嘲りました。
理由は三つ。第一に、ギリシャ神話やホメロス叙事詩やギリシャ悲劇が伝える通り<世界>はそもそもデタラメ(規定不能)で、条件プログラムは通じない。第二に、災難の理由を神の意志に帰属させて神をなだめる営みは、自立ならぬ依存で浅ましい。第三に、それが報われようが報われまいが正しい行為(仲間のための自己犠牲)をなす者こそ、真の英雄。福音書にも流れている思考です。
でも、ユダヤ教が行為に関わる条件プログラム(戒律)を重視したのに対してキリスト教は内面に関わる条件プログラム(道徳)を重視したとの誤解から、「行為の統制は王の世俗の営みに委ね、内面の統制は教皇の聖なる営みに委ねる」というトマス・アキナス的な双剣論が、西ローマ帝国の範域で一般化して、人が自力で世俗社会を作る営みをキリスト教が正当化したという話になりました。
それがイエスの教説だったか否かを横に置けば、それが世に言うキリスト教。『アンチクライスト』は題名からして、「世に言うキリスト教」への反措定。ならば、人に社会を作る資格などなく、だから現に社会(大規模定住)はいつもクソ社会で矛盾(マルクス)が消えることはなく、人は「法の奴隷」「言葉の自動機械」というクズへと頽落して本来性(ハイデガー)を見失う──となるはずです。