『中学聖日記』が描く“人が人を好きになること” 離れ離れになった有村架純と岡田健史の恋の行方
これは決してただの禁断のラブストーリーではない
そこで、ここまでの展開を振り返り、『中学聖日記』の魅力について改めて解説してみたい。
今期ドラマは特に恋愛モノが活発な印象だが、その中でも本作は「人が人を好きになること」を非常に繊細に描けているところに特色がある。人が恋におちるのに理由なんていらないのかもしれない。だけど、世の中、そう簡単に恋に溺れられる人ばかりではない。たとえ自分の中に芽生えた恋心に気づいても、それを認めてしまうのが怖くて、必死に蓋をしている人だって多い。本作は、そんな自分の中に生まれた制御不能な感情に対する向かい方を、長い時間をかけてじっくりと描いてきた。
主人公の聖は、極めて優等生タイプ。教職への熱意が強く、人並みの倫理観も持ち合わせている聖は、晶のがむしゃらな想いを、最初は冷静に、ある意味教科書通りに対処してきた。けれど、その行動に徐々に矛盾が見えはじめる。傍目から見れば軽率だとしか言いようのないことを、聖は何度も繰り返す。
そんな矛盾を、誰よりも自覚していたのは聖だった。もう彼女は気づいていたのだ、自分がとっくに晶に惹かれていることを。そのことを告白するのが第3話のクライマックス。聖は「教えてくれたことを受け止めてくれて。『ありがとう』って」と晶に惹かれた理由を話す。その瞬間、この物語は決してただの教師と生徒の禁断のラブストーリーではないことに気づいた。もっとシンプルな、人がどうしようもなく人を好きになってしまう物語なんだと知った。
聖はずっと自信がなかった。見知らぬ町。初めての担任。厳しい上司や保護者の目。生徒たちはどこか自分を軽んじていて、男子はただ「可愛いから」という理由でチヤホヤし、女子はただ「可愛いから」という理由で目の敵にする。誰も、自分をひとりの人間として、ひとりの教師として見てくれていないような気がした。
大好きな漢詩の授業をしているときも、みんな自分の話なんて聞いていなくて、話題はブラの色に夢中だった。だけど、黒岩だけがこの漢詩のことを覚えてくれていた。「先生、ありがとう」と言ってくれた。それは、まるで自分に自信を持てなかった聖の救いだった。希望だった。
聖は婚約者の勝太郎といると「上に上に引っ張られるような気がする」と言う。優秀な勝太郎に対して、自分は不釣り合いだといつも自嘲気味に語る。けれど、そんな聖に晶は「僕はまんまがいいです。今のまんまの聖ちゃんがいい」とまっすぐ想いをぶつけてくれた。自分のことを認めてくれた。それが嬉しくて、だから好きにならずにはいられなかった。
世間の常識にさらされながら、何とか模範的であろうとした聖。でも、そこにはいつも強いストレスとプレッシャーがあった。そんなしがらみから解放してくれたのが、晶だった。ありのままの自分を受け入れてくれたのが、晶だった。教師や生徒という線引きは関係なく、そんな人としての本質的な承認と受容を丁寧に描写しているからこそ、特に障害のある恋なんて経験したことがない人が観ても、思わずのめり込んでしまう普遍性が本作にはあるのだと思う。