小説の“翻案”、もしくは映画としての“再構築”? 『ハナレイ・ベイ』が描く「距離」と「触れる」

 イギー・ポップの「The Passenger」が夜明け前の海に鳴り響き、そのビートに合わせてタカシは青い波と戯れる。開巻直後の光景だ。そして10年後には同じように、若者2人が波と戯れる姿が映し出される。原作は短編だったとあって、ここに関する情景描写は控えめであったが、映画ではこういったハナレイの自然と人間との戯れが丁寧に扱われる。波立つハナレイの海とサーファーたちの、のどかな光景。しかし、たしかにタカシはここで、鮫に片足を食いちぎられて命を落とした。

 原作にもあるセリフで印象的なものが本作にも登場する。息子のタカシを失ったばかりのサチに向けられる、「息子さんは大義や怒りや憎しみなんかとは無縁に、自然の循環の中に戻っていった」という言葉だ。この言葉のとおりにタカシは、ハナレイの自然に、ハナレイの海に戻っていったのだろうか。

 たびたび挿入されるサチとタカシの様子を見れば、彼女らの親子関係があまり良好ではなかったことが分かる。2人はすれ違ってばかりで、身体と身体、心と心の間には距離があった。そこには親子として一つ屋根の下に暮らしながらも、「触れる」という行為が欠けていたのだ。ラジカセ、下着、サーフボード、Tシャツ、サンドイッチ……と、物を介しての交流しかなく、たしかな「距離」があったのである。

 本作ではこの「距離」と「触れる」ということが、視覚的に具体的に示されている。サチは浜から離れたところの木陰にデッキチェアを置き、そこで読書をする。日が傾き、木陰の位置が変わればそれに合わせて移動する。タカシが「死んだ」、そして先に述べた言葉をいま一度思い返すのなら、タカシが「戻っていった」かもしれない自然から彼女は「距離」を取ろうとするのだ。彼女がこのバカンスの地に不似合いに見える所以でもある。

 しかしサチは、19歳で死んだタカシとどこか重なる2人の若者と交流をしていくうちに、彼らと「距離」を縮め、やがては積極的に「触れる」ようになっていく。次第に彼女の顔には喜怒哀楽の色が浮かぶようにもなってくる。そして彼らから“片足の日本人サーファー”の話を聞いてから、サチは潮風が巻き上げる浜の砂を肌にはりつけて、日がな一日“それ”を探し続ける。ハナレイの陽光を浴びて自然との「距離」を縮め、海の水に、この地に根を張った木に、彼女は「触れる」のだ。タカシとの間接的な触れ合いとも見て取れるこの行為の先には、なにがあるのだろうか。それはハナレイ・ベイの穏やかな波音と、彼女の微笑みが示す通りである。

■折田侑駿
映画ライター。1990年生まれ。オムニバス長編映画『スクラップスクラッパー』などに役者として出演。最も好きな監督は、増村保造。

■公開情報
『ハナレイ・ベイ』
全国公開中
原作:『ハナレイ・ベイ』(新潮文庫刊『東京奇譚集』)村上春樹著
脚本・監督・編集:松永大司
音楽:半野喜弘
出演:吉田羊、佐野玲於、村上虹郎、佐藤魁、栗原類
配給:HIGH BROW CINEMA
(c)2018 『ハナレイ・ベイ』製作委員会
公式サイト:http://hanaleibay-movie.jp/

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