宮台真司の月刊映画時評 第10回(前編)
宮台真司の『愛しのアイリーン』評:「愛」ではなく「愛のようなもの」こそが「本当の愛」であるという逆説に傷つく体験
厳密な対位法が与えるもの
映画には厳密な対位法があります。アイリーンには貧困を端緒とした「駆り立て」連鎖があります。彼女を直接「駆り立て」るのは母親です。同じく、岩男には世間体を端緒とした「駆り立て」連鎖があります。彼を直接「駆り立て」るのも母親です。だから映画が描き出すように、二人にとって共通に、「駆り立て」て来る自らの母親がウザイのです。
そしてやがて、岩男はアイリーンを、アイリーンは岩男を、自分と同じ“「駆り立て」連鎖のコマ”に過ぎないのだ、と悟るのです。岩男は、アイリーンの母親が貧困に「駆り立て」られている事実を知り、情けをかけます。アイリーンは、岩男の母親が相次ぐ流産など数多の不幸に「駆り立て」られているのを知り、最後は寛容になります。
もう一つの対位法は、アイリーンに惚れる怪しいチンピラ・塩崎と、岩男を誘うパチンコ店員・愛子との、間にも見られます。アイリーンは、やがて塩崎を感染させます。同じく、岩男も、やがて愛子を感染させます。感染を導くのは、アイリーンと岩男の双方に見られる、多くは無知に由来するだろう過剰さです。
岩男は、童貞段階では、愛子の誘いが遊びか本気か区別がつかないで猪突猛進しますが、童貞を卒業するや所構わず発情してセックスしまくり、愛子に「あなたが初めからそうだったら…」と言わせます。アイリーンは、お前の結婚は売春と同じだと恫喝する塩崎に当初は動転しますが、けなげにそれを否定することで、塩崎の構えを変えさせます。
愛子や塩崎が、単なるやりまくりの尻軽女や、女衒の人買いとしては、登場してはいないことがポイントです。愛子は、子育ての疲れや甲斐性無しの亭主に、「駆り立て」られて“逃避”しようとしています。塩崎は、父に捨てられたフィリピーナである母の悲しみに「駆り立て」られて、“復讐”しようとしています。
愛子も塩崎も、岩男の母やアイリーンの母と同じく、「欠落」によって神経症的に「駆り立て」られています。そうやって「駆り立て」られている愛子と塩崎が、それぞれ岩男をセックスマシーンへと「駆り立て」、アイリーンを売春婦に「駆り立て」るのです(ただし未遂)。脇役に過ぎない存在に見えて、「駆り立て連鎖」のモチーフを奏でる重要な役割を演じます。
愛子がパチ屋には場違いの「掃き溜めに鶴」で、塩崎が村には場違いの「女衒風情」なのも共通します。愛子が岩男を、塩崎がアイリーンを、法外へと駆り立てる=誘惑する存在だからです。この図式は「祝祭時に定住社会を訪れる非定住民」と同型です。非定住民は、定住以前の遊動民と違って定住民に依存しますが、愛子も塩崎も村の人々に寄生しています。