宮台真司の『愛しのアイリーン』評:「愛」ではなく「愛のようなもの」こそが「本当の愛」であるという逆説に傷つく体験

宮台真司の『愛しのアイリーン』評:「愛」ではなく「愛のようなもの」こそが「本当の愛」であるという逆説に傷つく体験

愛を超える愛のようなもの

 さて、この映画に描かれるのは一つの「逆転」です。「愛」なき結婚に起因する怒濤のトラブルが、「愛のようなもの」を生み出す事態を描きます。奇妙なことに、「愛」よりも「愛のようなもの」の方が遙かに濃密で、登場人物たちに命を賭けさせるのです。なぜなのか。それを考えることで、観客は重い何かを持ち帰れることになります。

 竿師を導きの糸にします。竿師は単に竿(チンポ)で女をコントロールするだけに見えます。でも女の視座からも見なければなりません。女にとっては単に竿が気持ちいいからではありません。夢を見ることができるからです。そう。瞬間恋愛です。竿師とは、“チンポに加えて夢を咥えさせる”存在なのです。

 僕は1990年代前半に、“伝説のナンパカメラマン”や“テレクラナンパ師”を多数取材しました。結果は関西テレビ系のドキュメンタリーになってもいますが、長年不思議だった竿師の竿師たる所以が分かったように思いました。圧倒的な言葉の贈与や性交の贈与による「変性意識状態」の惹起と、彼ら自身の「超越系の佇まい」が、ヒントです。

 「超越系」を説明します。毎日が平穏で幸せであることで幸せになれるのが「内在系」です。他方、毎日が平穏で幸せであるだけでは幸せになれないのが「超越系」です。超越系は、不幸な「ここ」は無論、どんなに幸せな「ここ」にも、「ここではないどこか」を対置してそれを希求します。“優秀な”竿師は、日常をうまく生きられない「超越系」です。

 続いて「変性意識状態」を説明します。正確には「前催眠状態」ですが、軽いトランス状態だと考えればよいでしょう。言葉の怒濤やセックスの怒濤が与える非日常の感覚が、女を「ここではないどこか」に──より具体的には「あり得たかも知れない究極の愛」の夢想に──導くのです。僕が幾つかの著作で「瞬間恋愛」と呼んできたものです。

 瞬間恋愛は「愛のようなもの」に過ぎません。それなのに、女は竿師に縋り付き、全財産を注いだりします。そこにあるのは、「欠落」に起因する「見立て」や「重ね焼き」です。だから、女にとって、恋人や夫への「愛」より、竿師に対する「愛のようなもの」の方が勝つのです。これは数多の取材と自分の体験から得た確信でもあります。

 欠落に起因する見立てや重ね焼きは、フロイト的に言えば神経症の徴候です。翻ってみれば、岩男もアイリーンも、愛子(後述)も塩崎(後述)も、岩男の母ミツも、皆が神経症だと言えます。誰もが、「ここ」に「ここではないどこか」を重ねます。だからこそ、合理では一見説明できない振る舞いを連発するのです。でもそこには隠れた合理性があります。

 例えば、岩男と怒濤の性交をするに至る人妻・愛子。彼女の視座から見ると、「ここ」(法内)的には申し分ない夫であれ、「ここではないどこか」(法外)でシンクロしたい自らにとって、何ら抑止力にはなりません。というか、法を破る享楽を理解できない夫だからこそ、妻を「法外の享楽」へと押し出すのです。

 愛子にとっては所詮は火遊びに過ぎないとの反論があり得ます。確かにテレクラ取材で出会った人妻の多くは、良き妻や良き母であるためにこそ時々知らない人に抱かれる必要があるのだと語っています。でも、これを遊びとして矮小化するのは男の視座です。女の視座には、実は祝祭の暗喩があります。実際「祭り」という言葉を使う女もいます。

 連載も語ってきたように、“定住による集団規模の拡大ゆえに「法内」を生きることで所有を守る”というのは、かつてない「異常な作法」です。法内を生きる営みはたかだか1万年前からの、人類史的には特殊な作法です。この「異常さ」に耐えるには、仕掛けが必要です。その仕掛けが定期的な祝祭でした。正確には、祝祭への待望が日常を耐えさせるのです。

 祝祭は、社会システム(定住社会)から見れば単なる「ガス抜き装置」ですが、パーソンシステム(実存)から見れば「本来性への帰還」です。むろん「本当の自分」への帰還ではない。むしろ「本来の自分」を要求される定住社会の軛[くびき]からの解放です。「法」から「法外」へ。「輪郭のあるもの」から「輪郭のないもの」へ。つまり「エク・スタシス=外に立つこと」。

 祝祭時には、平時には差別される非定住民が「芸能の民」として奉納芝居や門付芝居などの「聖なる芝居」を、夜は娼婦などとして「聖なる性愛」を提供しました。鴻上尚史の芝居『ものがたり降る夜』(1999年)が描いた世界です。神々や高貴な人々を喜ばせる眩暈の営みを担うのです。一口で言えば、タブーとノンタブーの逆転劇の眩暈です。

 この逆転劇は情報非対称性の逆転として現れます。夫は妻について間男の存在を含めて僅かしか知りませんが、間男である竿師は彼女から夫について日常の癖から寝床での性癖を含めて全てを聞き出す。それを推し量るから浮気を知った夫が嫉妬で激昂する──。「日常愛が主で、非日常愛が従」とする通念は、問題の有害さを中和する認知的整合化です。

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