『モンテ・クリスト伯』が描いた人間の本質 作り手たちのエネルギーが詰まった最終回を振り返る
『モンテ・クリスト伯 ―華麗なる復讐―』(フジテレビ系)が、ついに完結した。なぜこれほど多くの中毒者を生み出したのか。俳優陣の気迫みなぎる演技、グイグイと引き込んでいく脚本、そして想像を超えてくる過激な演出……と、作り手の並々ならぬエネルギーに惹かれたのはもちろんだが、この物語に人間が逃れることのできない“異なる正義の闘い”を感じたからかもしれない。原作が発表されたのは、約170年も前。時代や背景が変わっても、人の本質は変わらないということだろうか。「いかに生きるかを学ぶには全生涯を要す」「人間とは自分の運命を支配する自由な者のことである」。セネカやマルクスが唱えた先人の言葉が、獄中の暖(ディーン・フジオカ)を奮い立たせたように、このドラマには人生を切り開くために必要なものを見せてくれた。
「昔はみんな幸せだったのに……」。柴門暖ことモンテ・クリスト・真海がポツリとつぶやいたこの言葉は、彼の鈍感さをよく表していた。“みんな幸せ”というのは、欲しいものを手にした者だけに見える幻の景色だ。自分が“持っている”のは、それを“持っていない”人がいることの裏返し。勝者がいれば、必ず敗者が生まれる。人が幸せになりたいという願いはすべて正義だ。だが、全員がそれを手に入れることなんてできない。争いは、互いの正義を貫こうとした結果だ。クーデターを起こしたのは正義か、悪か。理想の社会を作ろうと集まった人たちは義勇兵か、テロリストか。勝てば官軍。私たちが学んできた歴史も、欲しいものを手にした者の視点でしか語られない。
「みんな忘れようとしたんだよ」。愛を手に入れたかった南条幸男(大倉忠義)、ビジネスで成功したかった神楽清(新井浩文)、思い描いた家族とキャリアを作りたかった入間公平(高橋克典)は、自分たちも必死だったのだと訴える。暖の視点で描かれた本作だからこそ、“よくもそんなことを……”と思うが、これが彼らを主人公にしたドラマだったとしたら? 怪しげな投資家が突然現れ、もう思い出したくもない過去を掘り返していったら? 目の前で母親が自殺し、父親が壊れる様子を目の当たりにした入間公平の息子・瑛人は、愛梨(桜井ユキ)と同じく、家族がめちゃくちゃにされたと思ったことだろう。