高橋洋は恐怖に魅せられ続けている 荻野洋一の『霊的ボリシェヴィキ』評
わずかなヒントをたぐり寄せるために、私は『霊的ボリシェヴィキ』のセミナー出席者男女の顰(ひそ)みに倣って、恐縮ながら極私的な体験のうちのひとつを披瀝したいと思う。というのも幼少期に私は一度死んだような気がしてならないのである。幼い私は近所の子どもたちと一緒に近郊の住宅街を歩いていた。背後からバイクが猛スピードで来て、私を轢いた。私は数メートルバイクのタイヤに引き摺られ、そのままバイクは何事もなかったかのごとく走り去る。友人たちが大声で抗議しながらバイクを一斉に追いかけてくれたが、バイクはかまわず消えてしまった。路上に倒れたまま、去りゆくバイクとそのバイクを追いかける子たちの双方をとらえたバックショットを、今でもまざまざと思い出す。その後、何ヶ月か何年かして私はその現場にいた友の一人に確認する意味で「あの時、ぼくはバイクに轢かれたよね」と質問した。すると友に「なんで大丈夫だったの?」と逆に聞き返されてしまった。謎である。バイクに轢かれたことは結局、友たちと私の暗黙の秘密事項となり、両親にさえ話せていない。ひき逃げ犯も当然捕まっていない。後年、ジャン・コクトー監督『オルフェ』(1949)を見た私は、死神の密使の乗るバイクが詩人セジェストを轢いて走り去るバックショットを見た瞬間、「ああ、これだったのか」と合点がいったのである。
『霊的ボリシェヴィキ』はこの種の私的体験を怪談百物語のごとく集積させ、霊的な磁場を呼びこもうというのだ。そしてそれをカメラに収める映画製作行為も、それを劇場で上映する行為も、座席でそれに視線をむける鑑賞行為もすべてのプロセスが、この霊的な磁場に繋がっていないと証明することはだれにもできない。
じつは私と高橋洋監督は大学の同窓で、所属する映画サークルも同じであった。といっても私が新入生の時にあちらは6年生か7年生(留年)で、すでに風貌も大学生離れしていたが。その高橋大先輩がガリ版印刷によるサークルの機関誌に書いていた事柄が、大学1年の時以来今でも頭から離れない。彼は、ドイツの著名な映画作家フリッツ・ラング(1890-1976)がなぜドイツからフランス、アメリカに亡命したかを書く。若き日のヒトラーとゲッベルスがミュンヘンのビアホールかどこかで『ニーベルンゲン』(1924)と『メトロポリス』(1927)を絶讃し、俺たちが政権を奪取したあかつきにはフリッツ・ラング監督を映画大臣に任命しようと盛り上がる。政権奪取は1933年に実現し、じっさいにゲッベルスは執務室にラングを招喚し、大臣ポストに就くよう要請。ユダヤ人の母をもつラングはその日のうちに荷物をまとめ、間一髪でフランスに亡命する。そのあたりの狂信と恐怖のいきさつを、高橋洋は現実に見てきたかのごとき筆致で活写していた。その筆致から見られたのは、独裁政治に対する恐怖とマゾヒスティックな恍惚だったであろうことは、当時まだ十代だった私にも明瞭に理解できることだった。
ソ連好きが昂じたあまり、周囲から畏怖をもって「ヒロシヴィッチさん」とあだ名されていた高橋洋がサークルで作った8ミリ映画『夜は千の目を持つ』は、ドクトル・マブゼとナチズムの恐怖が1980年代の日本社会に胚胎する謎を描いていた。あれから多くの年月が経過したにもかかわらず、高橋洋は恐怖についての映画を作り続けている。なぜなら彼自身がその恐怖を、本作『霊的ボリシェヴィキ』のヒロイン・橘由紀子(韓英恵)と同様の「不治の病」として滞留させ、またその恐怖に魅せられ続けているからにほかならない。映画によって差し替えられ、再び映画によって追放されるべき外道である橘由紀子は、高橋洋の自画像である。
■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。
■公開情報
『霊的ボリシェヴィキ』
ユーロスペースほか全国順次公開中
監督:高橋洋
撮影:山田達也
照明:玉川直人
録音:臼井勝
音楽:長嶌寛幸
出演:韓英恵、巴山祐樹、長宗我部陽子、高木公佑、近藤笑菜、河野知美、本間菜穂、南谷朝子、伊藤洋三郎
製作:映画美学校
配給・宣伝:『霊的ボリシェヴィキ』宣伝部
配給・宣伝協力:プレイタイム
2017年/日本/ビスタサイズ/ステレオ/72分
(c)2017 The Film School of Tokyo
公式サイト:https://spiritualbolshevik.wixsite.com/bolsheviki