>  > 荻野洋一の『花咲くころ』評

人間はみなひとりぼっちーージョージア映画『花咲くころ』が彩る“生のありよう”

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 ジョージア(旧称グルジア)の女性映画作家ナナ・エクフティミシュヴィリが、夫でドイツ人監督のジモン・グロスと共同で撮りあげた『花咲くころ』という映画のもつ素晴らしさを、どのように表現したらいいのだろう。時代、政治、地域社会、都市、学校、集合住宅、家庭といった、私たちを当たり前のように取り囲む「環境」と呼ばれるもの、それがこの映画の主人公なのだと思う。一応ヒロインが2人登場する。エカとナティアーー同じ中学校に通う女子2人組ーーであり、彼女たちはそれぞれ家庭に問題を抱えている。『花咲くころ』はジャンルから言えば青春映画であり、銃後の戦争映画でもある。

 描かれるのは1992年の春、ジョージアの首都トビリシの住宅街。その前年にジョージアはソビエト連邦から独立を果たしたものの、政府の内紛で首都のトビリシ市内は内戦に巻き込まれた。さらに南オセチア地方と西部のアブハジア地方では分離独立の紛争が起きている。戦闘や爆発などは直接描かれることはない。ただ独立そうそう、市民は耐乏生活を強いられ、パンは配給制となり、電気とガスの供給はたびたび停止する。そんな厳しい環境下、市民はストレスと苛立ちを強めている。この映画の大人たちも子供たちも、さかんに怒りをぶちまけ、大声を張り上げて周囲と喧嘩を繰り返しているのは、「万人の万人に対する闘争」を想起させる。これはイギリスの哲学者トマス・ホッブズ(1588-1679)が著書『市民論』と『リヴァイアサン』で持ちだした表現として有名だが、ホッブズはそれを「市民社会なき人間の状態」または「自然状態」と呼んでいる。エクフティミシュヴィリ=グロス共同監督は、1992年春のジョージアを「市民社会なき人間の状態」として認識しているように筆者には思えてしかたがない。大人社会の乱れが子ども社会にも如実に反映されていくさまは、昨年に待望の再公開が実現した台湾映画の傑作『クーリンチェ少年殺人事件』(1992)においても同様だったが、「市民社会なき人間の状態」たる「万人の万人に対する闘争」下で、いったい何が映りこんでくるのだろうか?

 『花咲くころ』で何が映っているかというと、まずとにかく人々が腹を立てて言い争い、大声で口論している醜態である。上映時間の半分以上が口論シーンだと言っても過言ではない。これは伝統的に武勇の民として知られたジョージア人の好戦的気質によるのか、それとも内戦による時代的反映なのか。その両方であろうが、おそらく映画作家自身、人間同士が目を剥いて大声でわめくという図に魅了されているとしか思えない。人は気が済むまで喧嘩しなければならない。その果てに何が生み出されるのか。平穏なのか破滅なのか、それを作者たちは観たくてたまらないのだろう。画面内はつねに悪戯、イジメ、恐喝、誘拐、暴力沙汰に満ちている。一瞬たりとも油断のならない空間が360°ひろがっている。教室でひとりの女子生徒が大切にしているらしい写真を悪ガキ男子が取り上げて、争奪のあげくに写真は破れてしまう。しかしその次のシーンではクラス全員で授業をさぼり、写真の争奪で反目した女子と男子が遊園地でカートをぶつけ合って笑っている。加害/被害の関係が馴致によって無化されたのだ。

 怒りも喜びも、ひとつの感情が長続きしない。人々は次から次へと感情から感情へと乗り移っていく。そのせわしなさこそ、この映画の魅力なのかもしれない。せわしないと言えば、カメラワークもせわしない。ほとんど三脚によるフィックスショットはなく、人物たちの背後をせわしなく追い、彼らの感情にずかずかと侵入するカメラ。撮影を担当したのはルーマニア人カメラマンのオレグ・ムトゥ。ルーマニア映画は現在、国際的にきわめて高い評価を得ており、ムトゥはカンヌ映画祭でパルムドールを受賞したクリスティアン・ムンジウ監督『4ヶ月、3週と2日』(2007)や、クリスティ・プイウ監督『ラザレスク氏の最期』(2005)の撮影を担当してきた、ルーマニア映画の台頭を支える名カメラマンである。ルーマニア映画界に留まらず、ロシア、リトアニア、ポーランド、チェコ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてジョージアと、東ヨーロッパ全体に活躍の場を広げている。

 なお、ナナ・エクフティミシュヴィリ+ジモン・グロス共同監督の最新作『マイ・ハッピー・ファミリー』(2017)はNetflix限定配信で、こちらも素晴らしい作品なのだが(昨年のわがトップテンの7位)、やはり今回もルーマニア人カメラマンを起用している。オレグ・ムトゥの後輩にあたるトゥードル・ヴラディミール・パンドゥルという若手で、彼はクリスティアン・ムンジウ監督のあの哀切きわまりない傑作『エリザのために』(2016)の撮影も担当している。こうした東ヨーロッパ全域での人材交流と同時多発的な台頭という事態はどこかしら、昨今における中南米映画のケースに似ている。交通網の発達やデジタル機材の普及が、この地域の映画製作に、非常に興味深い相互交流の磁場を生み出しているのだ。東欧の映画と中南米の映画から目は離せない。

 言い争ってばかりの本作の登場人物たちだが、それがようやく寸断される時が来る。それは酒を飲む時と、歌を歌う時、そして踊る時である。ジョージアはワイン醸造の発祥の地と言われる。コーカサス山脈が北のロシアの寒気をさえぎるため、温暖な気候に恵まれたジョージアでは古代から良質なワインが作られてきた。ワインを飲むことじたいが民族の誇りの証明でもあるのだろう。少々の飲み過ぎを、外国人のわれわれが咎めるのは差し出がましい。そして歌。酒が入ると決まって男たちが4、5人並び、みごとな合唱を披露する。ワインと歌の喜ばしさは、ジョージア映画最大の名匠であるオタール・イオセリアーニ監督の諸作でさんざん観てきた映画ファンもいらっしゃると思う。

      

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