菊地成孔が語る、映画批評の倫理「1番やっちゃいけないのは、フェティッシュを持ち込むこと」

SNSで病んじゃうクリエイターは、逃げればいい

ーーこの本には、リアルサウンド映画部の連載のほかに、過去のコンテンツも収録しています。過去のテキストを読むと、菊地さんの文体も変わっていて興味深いです。

菊地:そうですね。文体の変化っていうのは服装の変化とか喋り方の変化と同じで結構自然なものなのですよね。「この頃こんな格好してたな」といった感じで。最近はちょっと、僕の文体だけじゃなくあらゆるプロの散文の文体が”離乳食化”してるのよ。要するに、噛み応えがないわけ。SNSのせいですよ。SNSの文章に慣れちゃうと、噛み応えある文章を書くと「読みづらい」とか「くどい」とかすごく言われるのよ。だから、読みやすくてくどくない、簡単な文章で書かないと読んでくれない状態に対して、いま物書きの人ってすごく苦労してると思うんですよね。

 先日『菊地成孔の欧米休憩タイム』の出版と同じ日に廣瀬純さんの『シネマの大義 廣瀬純映画論集』のイベントに登壇して。僕の本ですら難しいといわれてるのに、廣瀬さんの本なんか、日本語だと思われないよってぐらい難しいんだけど。廣瀬さんなんか、全くそういうこと気にしてない人で。もう蓮實の直系ですよね。

 それに対して僕はだいぶ優しく書いてるつもりなんだけど、やっぱり難しいとかしつこいとかいわれるの。昔の原稿を見るともっと難しいですよね、入り組んでいて。だからSNSによって幼児退行的になって。字面、文章面が柔らかくなって読みやすくなったらもう終わりだと当時は思ってたんですけど、気が付いたら結構そうなってるなっていう(笑)。SNSに負けている気はしてます。まだ全然お前の文章はSNSと違うよ、現にやってないでしょっていわれたらそれっきりなんですけど。自分なりに相当読みやすくしているなとは思いますね。昔は妥協一切なかったですね。

 まあ、基本的に僕はオプティミストなので。SNSもやらないって言ってアンチという立場を標榜している自分までが、エッセイストとしての文章がブログフォームやツイッターフォームに持ってかれてるのは、もう世も末で散文の危機だ、という風に暗くは考えてないですね。まぁなっちゃったな、自分も、という感じですけど(笑)。自然な変化だし、やっぱ一個人の屁のつっぱりよりもシーンの大きな流れっていうのはすごいなっていう風に思ってますけどね。

ーーYahoo!ニュースでいろんな記事へのコメントなどを読んでいると、的外れなものも多いと感じます。にも関わらず、それが炎上のきっかけになったりもするので、怖いなと。

菊地:今更そんなもん怖がったって、もう原子力が怖いとか言ってるのと同じですよ(笑)。昔はバカの発言なんか闇から闇だったんだけど、いまその発言が全部見えるようになったから、クリエイターにとっても、ユーザーにとっても辛いですよね。今までは「この音楽が良い」っていう人が前に来ていて、「その音楽なんてどうでもいいや」って人は後ろにいたんだけど、いまは「この音楽は気に食わない」って人のパワーの方が前に来る。要するに、SNS自体が欲求不満や憎悪のはけ口になりつつある。何かが変わればもっとSNSも平和になるのかもしれないけど、しばらくこの調子じゃないですか。

 SNSからちゃんと身を守っている、要するに人の言ってることなんか最初から気にしないってクリエイターは良いんだけど、気になっちゃって読んじゃって、エゴサで潰れる人っていっぱいいるよね。僕はそんなに気にしないし、腹立つと、そいつと喧嘩したくなっちゃう方なんですけれど、これをやってるとキリないじゃないですか。1番手ひどくて面白いな、と思った奴、デューク本郷っていう、アマゾンユーザーとだけははっきり徹底的にやりましたけど(笑)、誰彼構わずやったりする人いるじゃないですか? ツイッターで絡んだ人を、片っ端から。みたいな、あんなんやったら身がもたないですよね(笑)。

 だから一切やらないという形で、避難しないと。自分はSNSをやらないということを表明していますが、それによって、僕の感受性がすごい劣化してしまって、もう「あいつSNSやってないから全然わかってないな」ってことになったらもう筆を折るしかない。でも、「SNSやらなくったって書いてるものが面白い」ってことになれば、あれはやらなくたっていいもんだってことが、少なくとも僕の中では証明されるので、それでいいかなと思いますけどね。とは言え、知らない間に自分のことがSNSに載ってるから、やっぱり影響を受けちゃってるけどね。空気みたいなもんですから、今や。これだって壁新聞じゃなくてネットに載るわけだし(笑)。

 まぁ、SNSで病んじゃうクリエイターは、逃げればいいですよ。僕だってインターネットの全部が悪いって言ってるわけじゃないですよ。半日YouTubeだけ見てる日とかあるし、検索も、たまにですけど本当に困っちゃったなというときは使うし、お定まりのエロ動画とかね。だからインターネットはすごく活用してるの。ダメなのはSNS、中でもエゴサすること、つまり素人が書いた批評、という一種の語義矛盾の産物、、、産廃物というか(笑)が目に入ってくることで、それはクリエイターの心を蝕む可能性がありますよね。自分に免疫がないなと思った人は一切やめればいいと思いますね。1番苦しいのは、免疫がないのに見たいっていう人。一種のマゾだと思いますけど、まあ、それは楽しんでるわけだから病まない。変な形で自家中毒化すると障りますよね。でも人間は、毒物も栄養にできる生き物だから、これからどんどんエゴサに完全な形の免疫ができるクリエーターが出てくると思いますよ。

 だから僕の本、『菊地成孔の欧米休憩タイム』だけじゃなくて、いろんな本にネットワーク的に共通するテーマがあるとしたら、この時代にSNSをやらないで物を書いてる人がいるんだっていうことなんですよ。あまり伝わってないんだけど。

 いずれにせよ、その人の文章がダメかどうか、それはマーケットや批評が判断しますよ。

ーー菊地さんの自由な感じに惹かれている読者は多いと思います。

菊地:それが本当ならありがたいですけどね(笑)、脇を固めちゃうと何も書けないですよ。だから脇をガラガラ空きにしてツッコミどころ満載、だけど面白いよっていう。ツッコミどころ満載で、データが間違ってるけど着眼点は面白いし、これが批評の醍醐味だよっていう風にしていきたいですよね。一種の不衛生ですよ。病的な潔癖性にアゲインストするという。

 ラジオなんかやってると、記憶で好きに喋ってるとサブ(調整室。ディレクターやプロデューサーのいる空間)の方で検索して、「それ違ってます。1年違う」とか言われて、大打撃を受けて喋る気を失う、とまではいわないけ(笑)、ちょっとギクシャクします。

 昭和なんてみんな脇ガラガラ空きで、記憶力がすごかった。だから「それソース何よ?」「いや記憶ですよ。だから間違ってるかもしれませんけど何か?」とか(笑)。それで良いんだ、っていう時代が来ないかなとは思ってますけどね(笑)、こないですよね(笑)。要するに、さっき言ったけど、みんなが指摘されて恥かくことに対する恐怖心が絶頂で安定してしまっている、それがネット依存の症状であると客観視できる人はいいんだけど、ことの本質だと思ってるんで、まあ、しょうがないですよね(笑)。

ーー本に話が戻るんですが、再収録の『都市の同一性障害』では”幻視”について書いています。あの”幻視”という考え方は、今も有効でしょうか? 

菊地:そもそも人間が対象物について、完全に記憶するって段階で絶対に不可能だと思うんです。記憶はまだらなのね。たとえば僕の本についての書評を読んだときに「あのパート読んでないな」とかわかるわけ。音楽も「この曲聞いてないな、聞いてなくて言ってるな」とかわかるわけ。極端にいうと「あそこだけ読んで書いてるわ」「この人あとがきだけしか読んでない(笑)」とか思うわけ。

 そもそも批評とは何か、ってことまで考え始めちゃうとキリがないんだけど、昭和の音楽批評なんて、音楽評論家がアルバム1枚をまとめて語っていくわけじゃないですか。それに対して読者は、「アルバムを全曲聞いて暗記して語ってる」とか、自動的に思ってた。聞いてすらいなかったかもしれないわけです。近田春夫さんみたいな先鋭的な人は、あえて批評実験として、聴かずに書くとかね。今じゃ犯罪扱いでしょう。

 映画だって、DVD出してもらえれば何回も見れるから暗記できるけど、試写会だったら1回しか見れないわけだから寝たら終わりだし(笑)。2時間の映画を、映画評論家としての特殊技能として完全に暗記できます。なんて人いないです、絶対。だから断片的な記憶で書いてる。だから批評なんてそんなもんだ、ってところに立ち返らないといけないのに、まだら程度のソースで、突っ込まれないように脇を固めてるっていうのはおかしな話ですよね。見えてないんだから(笑)、そんなに脇を固めたいんだったら、何回も見て暗記するくらい見るまで書くなって言いたいですね。それでも、よしんば何回も見て記憶してれば完全に入った。とも言えないし。

 だから”幻視する”っていうのは、結局どうせ全部は見えてないんだから、何割かは”幻”が入っちゃってるわけですね、まだら記憶を素材に。人間が現実の全部を受け入れたら発狂するに決まってるから、幻想に支えられてるわけです。今、サブカル批評ごときでデータ主義の賢者ぶってるやつが一番馬鹿というか、病的な潔癖症つまり病人ですよ(笑)。科学者じゃないんだ(笑)。芸事じゃないですか批評なんて。その前提に立った上で、あえて積極的に幻視していくということは、脇を固めて資料とソースをはっきりさせて、とか言いながら出どころは全部インターネットの中にある、っていう自家中毒に対するカウンターとして少しは重要だとは思います。インターネットがソースとして完璧だっていう保証を誰がしたのか。ウィキペディアは嘘ばっかりだとか言ったその口でググれカスとかね。ネットに振り回されすぎだよとにかく(笑)。

 「ちゃんと調べてこうしましょう」「ちゃんと検索してみたらこうでした」とかいうことが、ものを理解してることになるっていうのは、ものを理解しようとする態度の中で1番最低というか(笑)。フェティッシュに淫しすぎた反動でしょう。そうなったら、見て間違えて覚えて思ったこと言った方がいくらかオーガニックで有益だと思うんですよ(笑)。だから幻視は、有効かどうかっていうよりも不可避的なものですよね。

ーー最後に、まえがきで論じている『君の名は。』と『シン・ゴジラ』について、そして本書のキーワードになっている「幸福な観客ではない」ということについて、改めて教えてください。

菊地:いやそれは、ここまで申し上げた通りです。お金をもらう限り、幸福でいるわけにはいけない。一生懸命脇を固めるのも幸福ではないでしょうし、フェティッシュを使わずに批評を、しかも面白く駆動しようというのも幸福ではないですよね。幸福は良い批評がかけたなと思う時です。批評の話なんだから。普段は幸福な観客ですよ(笑)。それよりも、どんな本にも「しまった! 書き落とした!」という重要なポイントがありますよね。大体が「重版したら書き加えます」みたいになるんだけど、そんなのお為ごかしですよね(笑)、こういう時に言った方が有効です。

 というわけで声を大にして本書の補填をここでしますが

<『シン・ゴジラ』の大いなる助走/試作品は、松本人志監督の『大日本人』である>

 嘘だと思ったら見比べていただきたい。もちろん、庵野監督が『大日本人』を観て、つまり直接的な影響関係があると言ってるんじゃないですよ。批評の立場で、世界に散らばってる作品同士の関係を読むということですが、同い年の(因みに僕もなんですが)監督による、同じノスタルジーに駆動された、同じ理念の作品です。大体『シン・ゴジラ』という言葉と『大日本人』という言葉は、ほぼほぼ同じ言葉ですよ。震災はシン・ゴジラにおける本質ではなくて、ギフトだということが、この二作を見比べると(まあ、見比べなくても。ですが)よくわかります。

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■商品情報
『菊地成孔の欧米休憩タイム』

著者:菊地成孔

価格:2,000円(税抜き)

発売日:8月10日

判型:四六版

発行:株式会社blueprint

発売:垣内出版株式会社【内容紹介】
映画メディア「RealSound 映画部」の人気連載「菊地成孔の欧米休憩タイム~アルファヴェットを使わない国々の映画批評~」を一挙総括! 公開後に Yahoo!ニュースなどで大きな議論を巻き起こした『ラ・ラ・ランド』評はもちろん、『シン・ゴジラ』『君の名は。』などヒット作の書き下ろし評論、ほか単行本未収録の原稿を多数収録。 “英語圏(欧米国)以外の映画を中心に評論する”というテーマのもと、菊地成孔が独自の角度から鋭く切り込んでいく、まったく新しい映画評論集。

【著者について】
1963年生まれ。サックス奏者。音楽界では、ミュージシャンを基軸として、映像作品の音楽監督、大学の講師など多岐にわたって活動。文筆家、コラムニスト、批評家など、言論界でも名を馳せる多作家。ファッションや食文化にも造詣が深い。自身が DJを務めるラジオ番組『菊地成孔の粋な夜電波』が放送中。

【目次】

<シン・君の名は>或は今年は1955年である/まえがきにかえて

第1章 欧米休憩タイム

『黒衣の刺客』/『ロマンス』/『木屋町 DARUMA』/『無頼漢 渇いた罪』/『ハッピーアワー』/『ビューティー・インサイド』 /『セーラー服と機関銃 -卒業-』 /『インサイダーズ/内部者たち』 /『山河ノスタルジア』 /『アイアムアヒーロー』/『ひと夏のファンタジア』/『ケンとカズ』/『暗殺』/『隻眼の虎』/『溺れるナイフ』/『ラ・ラ・ランド』 /『ラ・ラ・ランド』追補 /『お嬢さん』

第2章 TSUTAYAをやっつけろ
『死刑台のエレベーター』×2/『ディーヴァ』/『フライドドラコンフィッシュ』/『イヴのすべて』/『エージェントゾーハン』/『軽蔑』/『アメリカの夜』/ヒッチコック全作品(前後編)

第3章
『ひと夏のファンタジア』ハン・トンヒョン氏と対談 /ホン・サンス『次の朝は、他人』・同一性障害という美/ROCKS 都市の同一性障害 第1回「新宿とパリ」/ROCKS 都市の同一性障害 第2回「新宿とニューヨーク」/ROCKS 都市の同一性障害 第3回「新宿とソウル」/「K-HIPHOP」とワタシの出会いとその後の関係について

あとがき

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