実写をアニメ化する試みは成功したのか? モルモット吉田の『打ち上げ花火~』評

 実写をアニメで再現する試みは成功したのか?

 岩井俊二の世界に大根仁が注入されたことで化学変化を起こしたのは、なずなである。オリジナル版の影のある美少女ぶりから、アニメではプールに競泳水着姿で登場し、典道と祐介の50メートル競泳にも参加して「あたしが勝ったら何でも言うこと聞いて」とリードし、後半では「あたしにはママのビッチな血が流れているんだから」の名台詞まで吐くナチュラルビッチ・なずなである。確かにオリジナル版のなずなが成長すれば、小学生で同級生の男子を選んで駆落ちしようとしたぐらいなので、中学にもなればこのような存在になっているだろうと思わせる。『モテキ』をはじめ女優を際立たせることにかけて日本映画では一二を争う大根作品の女性像が、アニメに流入したことで岩井キャラに劇的な化学変化を起こさせた。

 釣具店をはじめロケーションもオリジナル版に近づけたり、多くのシーンでカメラアングルまで同じにしたりと、前半の実写の再現ぶりはオリジナル版のファンを驚かせるに充分だが、原初の輝きに迫る意図は分かるにしても、これは大根仁が絵コンテ・監督も担当すればの話ではないか。実際には武内宣之が監督しているだけに、岩井俊二→大根仁→武内宣之(新房昭之)と経由することで、構図も含めた再現度が高ければ高いほど、岩井俊二的なリズムとのズレが出てくる。

 病院の受付で典道となずなが鉢合わせする場面での「祐介こないよ」「あっ、そ」という2人の味気ない会話も、アニメは芝居の間が悪いように見える。この場面の続きで、病院の扉を開けた典道は、外の道に立つなずなと向き合う。オリジナル版では浴衣姿で立ち尽くすなずなのロングショットが、カメラとの距離といいハッとさせられるほど美しい。画面から奥菜恵が浮き立つのだ。これがアニメでは、なずなの膝上のショットからバストショットへ素早く繋いでしまうので、余韻を残さない。この後、なずなの母が追いかけてきて連れ去るシーンでの、典道の目線からローアングルで捉えられた鬼の形相を見せる母親のウエストショットがないのも印象が弱くなる。

 清水宏監督『按摩と女』(38年)をリメイクした石井克人監督『山のあなた〜徳市の恋〜』(08年)や、市川崑監督がセルフリメイクした『犬神家の一族』(76年/06年)は同じ脚本、ほぼ同じカット割りで忠実にオリジナルを再現するという倒錯的な試みを行っていたが、当然ながら傑作をコピペできるわけではない。不自由さを演出や演技に求めた末に精巧なレプリカのようなものが出来上がってくる。『打ち上げ花火』の再現ぶりは、〈あの伝説の『打ち上げ花火』〉をアニメに移行させるための極めて誠実な方法と思いつつ、実写ドラマの構造のまま移植すると、アニメのリズムとの齟齬を感じてしまう。もっとも、岩井俊二がアニメに挑んだ『花とアリス殺人事件』(15年)のように、実写で一度撮影してからトレースするロトスコープを用いて、編集も含め実写のときと同じスタイルで作ると、岩井作品のリズムは滑らかに移行されていたが、本作はシャフト制作だけに、同じものを求めるわけにはいかない。その時に、オリジナル版からのコピーがアニメに不自由さをもたらしたのではないかと思える。

 典道となずなが列車に乗った世界

 オリジナル版は元々『if もしも』という1話完結の1時間ドラマ枠で放送されたものだが、この番組は以下のようなコンセプトが立てられていた。番組台本の1ページ目にはこのような説明が書かれている。

「if もしも」は史上初の「結末のふたつあるテレビドラマ」です。

 つまり、主人公の判断やちょっとした偶然の選択による「運命の分岐点」を描き、そこから全然べつな方向に別れてゆくAの場合のストーリーとBの場合のストーリーとを両方ご覧にいれようという企画です。

 ですから当然、Aの結末とBの結末と両方あるわけで、台本を読んでとまどう方も多いと思いますが、この番組ではAもBもどちらも現実に起こっていることとして描きます。つまりどちらかが主人公の空想であったり、Aを選択して失敗した主人公が、人生をもう一度やりなおすためにBを選択しなおす、という意味ではないのです。

 以下に『打ち上げ花火』のオリジナル版を要約すると、

A:小学6年生のなずな(奥菜恵)はクラスメートの典道(山崎裕太)をデートに誘って駆落ちしようと企んでいたが、50メートル競泳で勝った方を誘うと決めたために、勝った祐介(反田孝幸)を誘うが約束を破られる。失意のうちに母親に見つかって連れ戻されてしまい、典道は呆然と見送る。

B:なずなは競泳で勝った典道を家から連れ出して駅に向かい、駆落ちを実行する。

 『if もしも』のフォーマットに照らし合わせると〈空想〉は使用禁止のようだが、Bは空想ではないのか。Aの最後で典道は、「あの時……俺が勝ってれば……俺が勝ってれば………」とつぶやき、競泳中の場面へとオーバーラップする。この後から始まるBで駅にたどり着き、大人っぽい服へと着替えたなずなは、一直線に遥か先まで続く線路を眺めながらホームに足を踏み出す。このシーンはオリジナル版でも屈指の盛り上がりを見せるが、次のカットに切り替わると、なずなは何事もなかったかのように、帰りのバスに乗ってしまうので典道は唖然とする。この駆落ち未遂劇が何とも唐突に見えてしまうのは、その前の盛り上がりが最高潮に達するからだが、これを典道の空想と考えれば、小学生の典道にとって、女の子と電車に乗って都会へ駆落ちする想像力の限界は、駅のホームまでだったのではないか。電車に乗った2人を想像できなかったことで、なずなは踵を返して帰ることになったのではないか。

 ということは、アニメによる長編リメイクの要となるのは、典道となずなを如何にして電車に乗せるかだろう。オリジナル版が描かなった先へ、中学生になった典道なら向かうことができるはずだ。一回しか使えなかった「ifもしも」が、今回は「もしも玉」というギミックによって、〈もしもの世界〉は複数に広がり、電車に乗れなければ、次のもしもでは電車に乗り、そこで障害によって行く手を阻まれれば、さらに次のもしもで乗り越えてゆく。

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