『BLAME!』はなぜマカロニ・ウエスタン風に? 日本アニメによる“B級アクション”の可能性

藤津亮太の『BLAME!』評

 2週間の限定で上映が始まった『BLAME!』がヒットしている。弐瓶勉原作の『シドニアの騎士』で国内ファンの注目を集めたポリゴンピクチュアズ(PPI)が、同じ原作者の出世作『BLAME!』を映画として制作した作品だ。すでにNetflixでの配信も始まっている。

 原作は非常に硬質な雰囲気のSFだが、映画は原作の雰囲気を生かしつつも、ド直球のエンターテインメントとして出来上がっていた。“感染”によって、正常な機能を失い無秩序増殖を続けている巨大な階層都市。都市コントロールへのアクセス権を失った人類は、防衛システム“セーフガード”に駆除される弱い存在へと成り下がり、長い時間が経過していた。

 都市の片隅に暮らす電基漁師たちも、セーフガードの脅威と慢性的な食糧不足により危機的状況にあった。ムラを救うために無謀な旅に挑んだ少女・づるが、セーフガードの一員に襲われた時、ひとりの男が現れる。その男は、“この世界を正常化する鍵”と言われている「ネット端末遺伝子」を求める探索者・霧亥(キリイ)だった。

 瀬下寛之監督が語っている通り、本作は原作のエピソードを下敷きにしながらも、マカロニ・ウエスタンを“本歌取り”したような内容に仕上がっている。霧亥がづるたちと初めて言葉を交わした後にかかる音楽も“マカロニ・ウエスタン風”だし、霧亥の押し殺したような喋り(声は櫻井孝宏)は、どこか山田康雄演じるイーストウッドを思い出させる。

 つまり本作はカルト的人気のSFマンガと最新の3DCGを組み合わせて、非常に古典的な流浪のヒーローの物語を作り上げたというわけである。そして日本のアニメにおいて、このような、俗に肯定的な意味で“B級”と呼ばれるようなアクション映画はなかなかない。

 以前から筆者は「アニメにはB級映画のパラドックスがある」と書いてきた。それは、B級アクションをアニメで説得力をもって描こうとすると、制作的にはA級のリソースを求められてしまう、という逆説のことである。

 だからアニメにおけるアクション映画は、B級アクションを目指しながらも、“B級”の言葉の裏側にある“十把一からげ”の状態からは遠い。むしろ類する作品の少ない孤独な作品群といったほうがいいだろう。SFであれば『クラッシャージョウ』『カウボーイビバップ』、時代物であれば『獣兵衛忍風帖』や『ストレンヂア 無皇刃譚』といった作品がそのゾーンに存在している。

 そんな日本のアニメの状況の中でどうして『BLAME!』が成立したのか。それはおそらくNetflixの存在が大きい。Netflixは「SCI-FI」で「アクション」の作品を求めているという。外資系SVODサービスが登場して初めて、日本のアクションアニメが、海外の“B級アクション映画”と並んで消費されることが可能になったのだ。

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