門間雄介の「日本映画を更新する人たち」第10回

『夜空はいつでも最高密度の青色だ』映画化はなぜ成功したか? 石井裕也監督と孫家邦Pのつながり

 監督の石井裕也いわく、最果タヒの詩集を映画化するという企画は、リトルモア代表を務めるプロデューサー孫家邦の「無茶ぶり」だったらしい。孫から映画化の話を持ちかけられた最果も、当初はこの大胆な試みにいくぶんか戸惑いを感じたという。

「いったいどうなるのかなって(笑)」

 実は初対面だという石井と最果の対談が『BRUTUS』(17年5月1日発売号)誌上で行われたとき、彼女は自身が考える詩と映画の違いを次のように説明してくれた。詩は読む人によって解釈が異なるほうがいい。一方、映画は状況が具体的に作られていくものだ、と。

「ある意味、詩と映画は正反対のものだから、最初はちょっと不安もありつつ、そこがうまく繋がったら面白くなるんじゃないかなと思っていました」

 でもそこがうまく繋がるとは、映画化が発表された昨年夏の時点では、ほとんどの人が思ってもみなかった。『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』で、詩のなかの顔も名前もない「きみ」や「ぼく」は、確かな表情と声を持つ登場人物となって現れる。例えばそれは、石橋静河扮する美香だったり、池松壮亮扮する慎二だったりする。ところがどうだろう? 彼らは、生身の肉体を持ちながら透明度を失わない、現代を生きる「きみ」や「ぼく」に見えやしないか。そこに映しだされているのは、観る人の数だけ無数に存在する、観る人にとっての自分の姿だ。詩の映画化は、その点においてまず、見事な成功を収めている。

 石井は詩集のなかの一篇、あるいは数篇をストーリーに落としこむのではなく、詩の感覚や雰囲気を映画にした。都市の片隅に暮らす若者たちの悲しみや優しさ。それが詩から映画へと持ちこまれた感覚や雰囲気だろう。昼は病院、夜はガールズバーで働く美香と、日雇い派遣労働者の慎二が、出会い、関係を結ぶボーイ・ミーツ・ガールの物語。でもふたりの間にたやすく恋は生まれない。

「恋愛は人間を凡庸にする」

 劇中の美香のモノローグは、最果の詩集にある「恋をした女の子が嫌いだ」(「惑星の詩」)、「そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない」(「青色の詩」)といった一節と響きあう。これは美香の渇いた恋愛観であると同時に、石井が示す時代の価値観でもある。

 現役の日本人監督のなかで、石井裕也ほど自覚的に時代を描いてきた監督はいない、少なくとも同世代において。彼が世に出るきっかけとなったPFFアワード2007グランプリ作品『剥き出しにっぽん』(05)も、商業映画デビュー作『川の底からこんにちは』(10)も、そこに描かれていたのは「失われた20年」の停滞感と、その現実を生きざるをえない若者たちのやるせなさや開き直りだった。日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞した代表作『舟を編む』(13)では、三浦しをんの原作に「1995年」という時代設定を加えることによって、デジタル化の趨勢に逆行して紙の辞書作りに励む主人公のひたむきさが強調された。いずれも石井のジャーナリスティックといっていい性質の現れである。

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