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石川慶監督の登場は、日本映画史における“事件”だ 荻野洋一の『愚行録』評

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 最近の満島ひかりを見ていると、もはや単なる“美人女優”というカテゴリーに収まりきらないで、ミュータントとかアバターとかヴァンパイアとか、そういう超人的な領域の中へとさまよい出てしまっているようで、じつにスリリングである。彼女は、放送中のTBS系ドラマ『カルテット』で寄る辺なき怠惰さをたたえた美女を妖しげに演じて、私たち視聴者を魅了している真っ最中だけれども、新作映画『愚行録』を見ると、いきなり警察の留置所に収監されている。容疑は赤ん坊の育児放棄。3歳となる彼女の娘は衰弱しており、意識不明の重体である。

 私たち人間の生というものは、私たちの生きる環境がセレブリティだろうと細民だろうと、つねに陰と陽のあいだを往来している。将来への不安、待遇の不公平感、嫉妬、焦燥、そういうものがグルグルと渦巻いているはずだ。歩きスマホの緩慢な歩行者に苛立ったり、隣の乗客の口を手で押さえないクシャミに激怒したりする。でもこのネガティヴな感情を貯めこむことなく手なずけ、上手に発散しながら前進していくことが、大人のたしなみでもある。いたずらにネガティヴィティを培養してみせたりする感性というやつは、社会の鼻つまみものである。

 でもそれがダムの決壊のように、どうしようもなくメルトダウンしてしまうケースがある。そうしたネガティヴィティの専制とも言うべき状況を、日本映画はつねに見つめてきたし、その分野では日本映画は他国の追随を許さないと言っても過言ではない。

 『愚行録』を見始めてまず思い出されたのは、黒澤明監督によるサスペンスの傑作『天国と地獄』(1963)だ。あの映画における「天国」とは、横浜の三ツ沢あたりの高台にある三船敏郎と香川京子の夫婦の高級住宅である。そして「地獄」とはこの住宅の眼下に広がる浅間下(せんげんした)あたりの貧民窟である。貧民窟で鬱屈する犯人(山崎努)はネガティヴィティの専制によって精神を支配されるままに、児童誘拐をはかる。

 『愚行録』の世田谷一家皆殺し事件の舞台となったのは、やはり斜面の上に建ち、路上の部外者からは居丈高にそびえる一軒家である。週刊誌の記者である主人公・田中(妻夫木聡)は、1年前に発生したまま迷宮入りとなったこの一家惨殺事件をふたたび記事にしたいと編集長に噛みつき、無理やり取材の許可を取る。そして彼の眼前で寒々しくその姿を晒すのが、この斜面に建つ住宅である。警察によって「KEEP OUT」のビニールテープが張りめぐらされ、まがまがしい空気を今なお放ってやまぬこの住宅の前で、田中はカメラのシャッターを切り始める。画面からは嫌な空気の匂いが立ちのぼっている。

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 映画冒頭のファーストカットがすばらしい。降り始めたばかりの雨粒が都営バスの窓を細かい滴でわずかに濡らしつつある、ねずみ色の空模様。カメラはスローモーションの中、バスの車窓を外側で回り込んでいき、緩慢なリズムと不気味な音楽と共に、主人公・田中の陰鬱な表情をとらえる。立っているお年寄りに席を譲るように中年サラリーマンから叱責された田中は、仏頂面のまま席を立つ。すると車内で転倒し、足を引きずって障がい者に扮して見せ、乗客一同を恥じ入らせる一芝居を打つ。じつに嫌らしい始まり方だ。田中が向かう先は警察署。留置されている妹に面会するためだ。その妹が前述の満島ひかりなのである。

 「知っていますか? 日本は格差社会というけれど、ホントは階級社会なんですよ」。週刊誌記者の田中が被害者一家の友人関係を洗い出し、聞き込み調査をする中で、誰かの口からそんなセリフが発せられていた。恵まれた家柄の者たちと、地獄の中を這いずり回る幼年時代を過ごした妻夫木聡と満島ひかりの兄妹とのあいだでは、「天国と地獄」のあからさまな視界の上下をもっていた。田中記者が、いやその1年前には、殺人犯が路上からエリート一家の居丈高な高級住宅を、あたかも黒澤『天国と地獄』の山﨑努のように見上げていた。

 慶応大学のパスティーシュとおぼしき名門「文応大学」の付属校からエレベータで上がってきたブルジョワ学生の別荘の庭には極端な高低差がしつらえられ、付属から上がってきた「内部生」たちは庭の上部、「外部生」は下部で遊んでいた。この上部と下部を往来する人物が2名描かれる。この2名が上下往来の悲劇を演じてしまうことになる。

 本作が長編デビュー作だという石川慶という聞き慣れない名前の監督は、名匠アンジェイ・ワイダやイエジー・スコリモフスキなどを輩出したポーランド国立ウッジ映画大学の出身という非常なる異端である。石川慶監督は述べる。

      

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