宮台真司はなぜ映画批評を再開したのか? 『正義から享楽へ』刊行記念インタビュー

宮台真司『正義から享楽へ』インタビュー

「“語彙”を与えてくれる映画が陸続と続いている」

――本書で取り上げられた『シン・ゴジラ』(同映画に勇気づけられる左右の愚昧さと、「破壊の享楽」の不完全性)、『ニュースの真相』(よく出来た映画だが、トランプ現象の背景を捉えきれない)などの批評に登場するモチーフですね。

宮台:そうです。『ニュースの真相』評でも述べたけど、リベラルメディアは今でも「人権・ユニバーサリティ(普遍主義)・近代」万歳といったモード。僕も多勢に無勢だと思ったから、叩き出しゲームに勤しむ連中を<感情の劣化>だと批判する<なりすまし>を続けてきました。ただローティから遡ること50年、批判理論や効果研究が実証したように、ソーシャル・キャピタルの破壊つまり人々の分断と孤立化が進めば攻撃的な排外主義が高まって当然で、ソーシャル・キャピタルを手当てできない限りはどうしようもないのです。<感情の劣化>批判ごときでは何一つ変えることはできません。これからも永久にそうです。

 その意味で、リベラルを自称しつつ、分断と孤立化を拡げる野放図なグローバル化に異を唱えて来なかった輩は、御都合主義者のクズ。だから僕は、古くからの徹底した天皇制擁護を含めて、自分がリベラルとは全く異質な感じ方をしている事実を言う機会を伺ってきました。社会学界隈は、リベラルつまり分厚い中間層の存在を前提にした戦後の平等ゲームが基本です。僕のような構えはなかなか人を説得できません。ちなみに今上天皇の「御意志」の扱いを巡ってはリベラルが沈黙していますが、お笑いです。馬脚が現れました。『正義から享楽へ』では天皇が登場する映画を複数取り挙げ、それに触れています。

 もう一つ、重要な動機があります。それに比べれば今までの話はそんなに重要ではない。それはBH(ビッグヒストリー)上の問題です。本では、分子考古学や進化生物学や比較認知科学やネオ人類学などの成果を必要に応じて導入しています。それは、少なくとも20万年間、遺伝子的な基底が全く変わらない状態で、4万年前にうたと区別された概念言語を獲得し、1万年前に定住社会を獲得し、3千年前に書記言語の誕生によって大規模定住社会を獲得してきた、という展開の中に無理はないのか、という問題設定です。

 そこで参考にしたのが、(書記)言語による拘束が(無)意識を生み出したとする、ラカンからジュリアン・ジェインズを経てトール・ノーレットランダージュに至る思考伝統と、大規模定住社会が「利己と利他の対称性=正義と享楽の一致」の破壊を通じて、<交換>からなるゼロサム・ゲームという<クソ社会>をもたらしたとする、クリストファー・ライアンからフランス・ドゥヴァールに至る思考伝統*5です。むろん「正義と享楽の乖離」を被った<クソ社会>から「正義と享楽の一致」を見る<社会>へ、というプラグマティズムの思考伝統も参照しています。

*5 ライアンを典拠の1つとするのがモノガミー的ゼロサムを否定するポリアモラスの思考。面識圏(トライブ)内のノンゼロサムという思考伝統にポリアモリーを適切に位置づける日本語の文章がない中、例外が幌村菜生のブログ(http://www.tetrahedron.institute/blog/)と、幌村が紹介するフランクリン・ヴューの立論(http://www.tetrahedron.institute/what-is-polyamory/)。幌村によれば共同体論を欠いた性愛論はいいとこ取りに過ぎず、単に有害だ。関連する記述が『正義から享楽へ』の『LOVE【3D】』論にあるが、上記を参照しながら読むと理解が深まり、映画に対する誤解や偏見も避けられる。

 そのことも含めて長年考えてきたことをできるだけ深いところまで表現しようと思うと、社会学の守備範囲を超えるので、そこに「映画」という参照点があれば読者の方々にわかってもらいやすいだろうと考えました。そもそも「正義から享楽へ」という流れは、<社会>を<実存>から見る──あるいは<世界>ならぬ<世界体験>を見る──僕のスタンスを欠いては見通せません。<実存>や<世界体験>に注目するのは映画表現者の基本作法です。だからマッチングが良いのです。「僕の言うことが分からないのなら、この映画を観て」とも言えるし、「この映画が分からないのなら、僕の言うことを聞いて」とも言えます。

――そうした思いが、この数年で強まった、ということでしょうか。

宮台:機が熟したのだと思います。僕は享楽的ですが、人から享楽の機会を奪うのも不愉快です。大学時代、僕の挨拶はいつも同じで「何か面白いことないの?」でした。今も変わらない。幸せでもつまらなく思いがちです。ウェーバーの知識人定義に倣ってこうした実存を<超越系>と呼んできました。反対が<内在系>。本に収録した富田克也・相澤虎之助両監督との鼎談でも話したけど、1993年に援助交際を発見したときも、誤解を恐れず言うと愉快でした。ただし僕はその扱いに失敗し、援交をオーバーグラウンド化させたことでモードを変えてしまった。いずれにせよ僕には幼少期から「正しさによって享楽が奪われている」感覚が常にあります。でも試行錯誤して思うのは、それは必然的ではなく、やりようによって「楽しくて正しい」を広くシェアできることです。でも鈍感な輩が「正しくてもつまらない」「正義によって享楽の独占と剥奪が蔓延した」事態を拡げています。

 でも、それに抗うにしても言葉をどう組織すればいいのか、ずっと自信がありませんでした。なので、援助交際を世間に知らしめるとか、「<社会>から<世界>へ」という文脈で「<社会>の外に拡がる<世界>に享楽がある」という書き方をしたりと、回り道をしました。そんな中、最近の映画に助けられて突然に語彙が大量に与えられたと感じました。リアルサウンドの連載を続けてみて見込みは間違っていませんでした。語彙を与えてくれる映画が陸続と続いているのです。ただ、語彙といってもまだ概念として自立しておらず、映画と引き比べて初めてシニフィエ(意味されるもの)がわかる。だから本にした訳です。

――宮台さんが考えてきたモチーフと響き合い、“語彙”を与えてくれる作品が増えてきたのはなぜだと思われますか。

宮台:理由は簡単です。地球規模で未来が“完全に”消えたからです。技術革新と制度変革が指し示す未来は、人間の幸いというよりも人間の消滅です。圧縮して申し上げます。例えば、黒沢清監督との対談でも申し上げたように、黒沢作品には常に<なりすまし>というモチーフがあります。誰もが死んでいて、風景も滅んでいるのに、気がつかないフリをして、あるいは本当に気がつかないで、毎日を生きている、と。多くの人が理解しなかったこのモチーフが、近年多くの観客に理解されるようになりました。ゼミで継続的に映画を素材にしてきたので、学生の反応から推測できるのです。本で取りあげた『ゴーン・ガール』『リップヴァンウィンクルの花嫁』も<なりすまし>モチーフだし、本で扱わなかった『アンダー・ザ・スキン』や短編『陽だまりの詩』もそう。偶然ではありません。

 「社会はそもそもクソだ」という事実に皆が気づいたのです。僕は映画批評を再開する前から<クソ社会>のキーワードを使ってきました。かつては「社会がクソでも、それは自分が置かれた状況が悪いからで、ポジション次第では良い社会だ」という感覚が共有されていたでしょう。自分が不幸なのは自分をひどいポジションに押しとどめている社会のせいだと。マルクス主義を含めた<19世紀的思考>です。しかし冒頭に述べた定義を思い出してほしい。妄想の共有を信頼できなくなったせいで被害妄想的になった人々の、浅ましい営みが蔓延しているのが<クソ社会>。そこでは利己と利他の対称性が崩れて全てが<交換>を介したゼロサム・ゲームになります。その意味で、程度の差はあれ、大規模定住社会は全てが<クソ社会>です。

 そのことを書けるようになるのはいつのことだろうと思っていました。ところがこの3年、「たまたま置かれたポジションとは関係なく全ての社会は<クソ社会>であり、そこを<なりすまし>て生きる他はない」というモチーフを全面展開する映画表現が続出するようになりました。「未来が完全に消えた」というのは、「ポジションの“回復”によって埋め合わせできる<クソ>ぶりではないことが広く理解されるようになったが、こうした理解の変容は不可逆だろう」という意味です。その意味で、この3年、僕にとって「映画が与える<世界体験>」の変化は大きかった。それが僕が<世界体験>に照準した映画批評を再開した理由です。あとがきにも記しましたが、読者の皆さんにも<世界体験>の変化を共有していただき、「ならばこの映画はどうだ?」という情報をお寄せいただければ幸いです。

(取材=編集部)

■書籍情報
『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』
発売中
著者:宮台真司
定価:1800円+税
ISBN-10:4773405023/ISBN-13:978-4773405026
仕様:四六判/392ページ/ソフトカバー
発行:株式会社blueprint
発売:垣内出版

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