モルモット吉田の『溺れるナイフ』評:菅田将暉によって、山戸映画の男が血肉通った存在になった

山戸結希の映画世界

 もし、『溺れるナイフ』が夏芽とコウの神話的世界だけを描いた1時間ほどの中篇なら、『おとぎ話みたい』に匹敵するとんでもない傑作と思っただろう。『あの娘が海辺で踊ってる』も『おとぎ話みたい』も1時間以内の中篇である。余計な夾雑物を大胆に取り払い、映像と言語と音楽を同時並列させて疾走し、三段式ロケットの如く、一段目の高度が落ち始めると矢継ぎ早に二段目が点火され、一気に飛距離を伸ばす山戸映画の手法は中篇には相応しいが、85分の『5つ数えれば君の夢』(14年)になると減速が激しく、長編には十全な構成が必要と思わせた。その点では、『おとぎ話みたい』でダンスの先生を演じたベテラン脚本家の井土紀州が『溺れるナイフ』の脚本に参加したことで、2時間の商業映画として通用する脚本が作られたのは正しい戦略だろう。しかし、冒頭の相米の事例にもあったが、即興的な動きを重視すると必然的に各シーンが長くなり、映画を観ている分には切っ先鋭い編集の妙技もあって観ていられるが、作品の構造として説明不足、描写不足が目につくようになる。つまり、脚本には書かれているが、映画からは落ちているシーンが出てくる。それはどの映画でも同じことだが、本作の場合、重要と思われるシーンも消えている。

 一例を挙げれば、山の神さまの説明を夏芽が聞く場面、コウが他のクラスの女子と相合傘で歩いていくのを目にした夏芽がコウの前に立ちはだかって写真集を見せようとする場面、コウの祖父の葬儀とコウがカナ(上白石萌音)を罵倒する場面、翌年の火祭りが厳戒態勢になっている様子など、実際に撮影したかどうかは不明だが、これらのシーンがあるだけでも映画全体の印象は変わるはずだ。

 中学と高校で鮮やかにキャラクターを作り変えたカナは、上白石の巧みな演技によって描かれない裏も想像させてくれるが、これは少女には卓越した描写を得意とする山戸だからこそ、と思わせる。ところが大人や男だけの描写になると途端に凡庸になる。広能の様に浮世離れした存在は、『おとぎ話みたい』でおとぎ話のメンバーが演じた様に、あえてミュージシャンに演じさせることで成立するが、夏芽の父(斉藤陽一郎)や祖父(ミッキー・カーチス)になると、誰が演じようがどうでもいいという感じだ。あれだけ夏芽といる時は崇高なまでに凛々しいコウにしても、自宅で祖父と面作りをする場面や、火祭りで松明を持って舞う男だけの場面になると形骸的で描写に重みが出てこない。水=海には神話性を持たせているのに、火祭りが不発ではもう一方の山の神話性が立たない。水によって繋がってきたコウと夏芽が、海と山、水と火が重なり合う情炎のクライマックスを火祭りの最中に形成せねばならなかったはずだが、終盤の印象が弱いのは大きな欠落に思える。
 
 ここらで『溺れるナイフ』に至る山戸作品にも目を向けておこう。本作のプロトタイプとも言える山戸結希×小松菜奈の先行作品がある。中島哲也が監督した映画『渇き』(14年)のBlu-ray、DVDの特典映像に収録された『私はわたしを探しています。』である。『渇き』の撮影から1年後、小松がインタビューに答えて回顧し、メイキング映像がインサートされるという構成だが、そうしたありきたりな枠は守りつつも、田舎→東京という山戸作品で繰り返し描いてきたテーマが描かれる。山梨の田舎で生まれ育った少女が東京でモデルの仕事をするという小松の実生活を、地元の山の頂や山中の滝をバックに語らせ、そこに「私の運命は誰が決めるのでしょうか。それは私自身に他なりません。私の心も身体も、私が輝くことも光の下で私が選んでいるのです」「ずっと輝くことを待っていました」「私は東京へ向かいます。私が輝くための時間へ」といった山戸作品らしい過剰なモノローグで小松が語りかけてくる。学校で同級生たちへ撮影現場のことを尋ねられ、屈託なく答えていると語る姿、母とは直ぐ喧嘩になるが、父は仕事を応援してくれていて何でも話せると語る姿に、『溺れるナイフ』の小松を重ねることは容易だろう。

 一方で、山戸作品においては、俳優の言語力と身体性によって作品が左右される。『おとぎ話みたい』が突出したのは監督の力量だけでなく、それを実現させる趣里という類まれな言語力と身体性を持つ俳優との出会いも大きかったはずだ。学校の屋上でその場にいない恋いこがれる教師に向かっての独白を続けながら自在に身体の重心を動かし、飛翔し、フェンスに飛びつく演技を他に誰ができるだろうか。実際、『5つ数えれば君の夢』に失望していた筆者が、その後に『おとぎ話みたい』の続編的なPV『COSMOS』 (『おとぎ話みたい』一般劇場公開時やソフト化された際には連続上映されている)で再び山戸の才に感嘆した。1カットで趣里が銀座中央通りをひたすら舞い踊るが、あたかも彼女の姿が誰も見えていないかのように、人混みの中を見事にすり抜けていく。演出と演者が幸福な形で交じり合った時の爆発力を実感させられる。

 そうした意味で、『溺れるナイフ』で身体性を担ったのは菅田将暉だろう。森の中で水たまりの周辺を走る時の俊敏さや、小屋で布団に寝ている時に反対側に向く時の目にもとまらぬ速さなど、菅田の身体の滑らかな動きには見惚れてしまう。これまでの山戸作品では女子は良いとして、男の描写になると女子の妄想的産物か、棒にしか見えなかっただけに菅田によって血肉が通った存在になったのではないか。

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