黒沢清はイメージの狂気の中を彷徨っている 荻野洋一の『ダゲレオタイプの女』評

 つい先ほど不用意にも、小津安二郎の『風の中の牝雞』なんぞに言及してしまったが、この『ダゲレオタイプの女』は小津ではなくむしろ、溝口健二監督の霊を破廉恥なまでに堂々と蘇生させてしまっている。日本人監督がパリ郊外の忘れられた屋敷で、不意に溝口健二の霊を蘇生させたのだから、フランスの映画ファンは本作に狂喜乱舞するだろう。溝口の名作『雨月物語』(1953)で、京マチ子の霊に取り憑かれる森雅之。そして、『ダゲレオタイプの女』のある登場人物の一人芝居は、同じく溝口の『折鶴お千』(1935)ラストの精神病院において亡霊と一人格闘する山田五十鈴の鬼気迫る演技を想起させる。このあられもない溝口蘇生に対し、戦慄を覚えずにいられない人間が、はたしてこの世界にどれだけ残っているだろうか。

ダゲレオタイプの発明者ダゲールが1837年に撮影した人類最初期の写真

 写真——とりわけ長時間露光によって定着するダゲレオタイプの銀板写真は、死というものに結びついているようだ。掲載した写真はダゲール自身によって撮影された世界最古の写真のひとつである(1837年)。見たとおりこれは静物画である。額に入った小さな絵、籐で編まれたブドウ酒入れ、釣り下がった暗幕のほかには、5体の石膏像が並べられている。石膏は髑髏の様相をなしている。静物画=vanitas(人生の虚栄)が、ここにはすでに確かに刻まれてしまっている。写真は、発明の瞬間から死と隣り合わせだったのである。

 Memento mori(メメント・モリ)、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句である。静物画のルールには、必ず何かしら死を連想させるシンボルを描きこまねばらぬという決まりごとがある。髑髏なり、落ちている花びらなり。ステファンの写すダゲレオタイプもまた、亡くなったばかりの赤ん坊の遺影を若い両親が依頼しにくるシーンからも明らかなように、静物画=vanitasであり、Memento moriである。つまるところ、この映画全体がMemento moriの体現ということになる。

 すでに滅んだ19世紀の写真術を再現しようと、人間よりも巨大なカメラを地下のアトリエに置いて、自分の娘を器具で拘束する写真家ステファンは完全に狂気の中に生きているが、ダゲール、リュミエール兄弟といった画像定着技術の黎明期へと遡行しながら、溝口的心霊を招喚してみせる黒沢清もまた、ステファンに劣らずイメージの狂気の中を彷徨っているように思える。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『ダゲレオタイプの女』
ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテほかにて全国公開中
監督・脚本:黒沢清
撮影:アレクシス・カヴィルシヌ
音楽:グレゴワール・エッツェル
出演:タハール・ラヒム、コンスタンス・ルソー、オリヴィエ・グルメ、マチュー・アマルリック
配給:ビターズ・エンド
原題:「La Femme de la Plaque Argentique」/フランス=ベルギー=日本合作
(c)FILM-IN-EVOLUTION - LES PRODUCTIONS BALTHAZAR - FRAKAS PRODUCTIONS - LFDLPA Japan Film Partners - ARTE France Cinema
公式サイト:http://www.bitters.co.jp/dagereo/

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