荻野洋一の『怒り』評:森山未來、綾野剛、松山ケンイチらの熱演が作品にもたらしたもの

荻野洋一の『怒り』評:森山未來、綾野剛、松山ケンイチらの熱演が作品にもたらしたもの

 観客をミスリードするモンタージュ。それは映画の序盤で、殺人事件を特集した報道スペシャルで流される犯人のモンタージュ写真がその代表例だろう。ご丁寧にも女装姿まで用意されたそのモンタージュ写真が、意図的に松山ケンイチにも森山未來にも綾野剛にも見えるように作られている。真犯人/えん罪の敷居はどこまでもあいまいで、そのあいまいさはあたかも、私たち人間が一歩まちがえれば、殺人犯にも被害者にも、さらには密告者にもなりうる、という不確実性を訴えかけるかのようである。仮に誰かが真犯人だったとしても、ではそれ以外の者が犯人になる(あるいは被害者になる、あるいは愛する人を容疑者として通報する)要素を持ち合わせていないとは、言い切れないのである。

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 いかなるモンタージュ的紐帯で作り手が、関係のないもの同士を縫い合わせようと、鮮血で殴り書きされた「怒」の一文字が暴力原因として提示されていようと、はたまた、殺人とは関係のないあとの2つのストーリーにもたっぷりと感動装置がしかけられていようと、ミスリードによって観客を弄んでいる咎はまぬがれない。モンタージュによって観客を騙すという「ゲーム」を本作は巧みなさばきでしかけて観客を揺るがし、それでいて「ゲーム」の遊戯性が生み出さずにはいられない「不謹慎さ」というものを、豪華俳優陣の容赦のない熱演と、そして感動装置の発動によって意識的か無意識的かはともかく完璧に覆い隠してしまっている。殺人事件捜査をめぐる「ゲーム」の遊戯性と、骨太人間ドラマの感動装置が危うい共存を果たした映画としては、水上勉原作、内田吐夢監督の『飢餓海峡』(1965)、松本清張原作、野村芳太郎監督の『砂の器』(1974)などが挙げられる。はたして『怒り』はこの両作に並びうるや否や。

 古今東西の映画は歴史的に、不埒なほどに膨大な人数の殺人者を、魅惑的に描いてきた。映画というものは、殺人者の言い分にしばし聞く耳をもつ、さらには彼(彼女)の破滅に際して涙を流しさえする、という点では、「道徳」の側面に対してはおそろしく寛容な表現手段である——いや16~17世紀の殺人作曲家カルロ・ジェズアルドの書く宗教楽曲やマドリガーレが、この世のものとも思えぬ美しさを湛えていたように、芸術すべてが本来的に不道徳なものなのだろう——その一方で、モンタージュをめぐっては「倫理」の違反ないし不在に対してはつねに取り締まりが厳しい。『怒り』の遊戯性と感動の両立のしかたは、映画の倫理に従うならバツなのではないか。そして、この点で批判的な論議を開始することについて、この映画の作り手たちは、意外に歓迎するような気がしてならない。この映画を語るに際し、ゴダールだの内田吐夢だのを机上に乗せてくれるというなら、大いにやろうじゃないか。そう述べる彼らの声が聞こえてくるようだ。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『怒り』
全国東宝系にて公開中
監督・脚本:李相日
原作:吉田修一「怒り」(中央公論新社刊)
出演:渡辺謙、森山未來、松山ケンイチ、綾野剛、広瀬すず、佐久本宝、ピエール瀧、三浦貴大、高畑充希、原日出子、池脇千鶴、宮崎あおい、妻夫木聡
配給:東宝
(c)2016映画「怒り」製作委員会
公式サイト:www.ikari-movie.com

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