スピルバーグ新作『BFG』が描く“映像と言葉”の狭間ーーソフィーの夢はなにを意味する?

 映像と言葉というふたつの異なるものの間で生きることの重大な意味は、BFGの仕事である夢の捕獲作業に関わっている。まず第一に、この映画において夢とは言葉なのだ。たとえ夢が放つネオンライトのような光で輪郭が映像としてかたちづくられることはあっても、影絵のようなものとして映像化されることがあっても、それらは副次的な要素に過ぎずすべてはBFGが夢を聞き取ることから始められなければならない(ソフィーとBFGが人間の子供に吹き込んだ夢を考えてみるといい。合衆国大統領が、その子供の「噂を聞いて」「相談するために」「電話」をかけてくる映像なんて、BFGの解説なしに影絵だけを見ていてもまったくなんのことだかわからない)。

 そして第二に、夢とは過去であり未来なのだ。ソフィーとBFGがふたりで捕まえたふたつの極端な夢が、その特性をわかりやすく示している。まずとびきり最高のすばらしいものとして捕獲される夢は、BFGの語るところによるとどうもソフィーの未来を物語っているらしく、そして非常に危険な悪夢として捕獲されるもうひとつの夢は、取り返しのつかない過去へのどうしようもない後悔(明らかにはされないものの、どうやらBFG自身のものに思える)をささやいているらしい。

 つまり夢とは、いいものであれ悪いものであれ、やがてやってくるはずかもしれないし、既に過ぎ去ってしまったものかもしれないが、いまここにある映像とはズレたなにかなのである。喩えるなら、夢をつかまえるときに、ソフィーが「肘のところに止まってる。そっちじゃなくて反対の肘!」と言葉で指示し、それに合わせてBFGが動いても、言葉と動きの間のズレは一向に縮まらず、全然夢をつかまえられないように。そうした言葉と映像の絶え間ない追いかけっこが続く限りにおいて、BFGが言葉と映像のズレを積極的に引き受ける限りにおいて、彼はソフィーと一緒にいられる。

 

 元来、音と映像の完全なる同期は大きな快楽である(この映画の中でさえ、「プップクプー」なる飲み物を飲むくだりの、映像と音の完全なる一致にある、あのディズニー的多幸感!)。だが『蒸気船ウィリー』以来音と映像の幸福なシンクロを追求してきたはずのディズニーという会社プレゼンツのこの作品で、最後にやってくる言葉と映像の同期の瞬間は、どこか悲しい。人間界に戻ってきたソフィーはある朝目覚めて、BFGと過ごした巨人の国の細部を言葉で描写し始める。

 彼女が物語ると同時に、カメラは寸分の遅れもなく彼女が描写した対象を映し出す。これまで映画が映し出してきた場所も、こんな風になっていたのかという細部も、言葉と映像が完全に足並みをそろえて見せていく。だがそうして隅から隅まで描き出したとしても、そこにもうBFGの姿はない。最後に大きく映し出される彼の笑顔さえ、もうここにはいないもののような、遺影のような感じに見える。

 なぜスピルバーグがBFGの過去に、食べられてしまった少年の存在という影を落とし、それによって言葉と映像のズレを生きるという重荷を背負わせたのはわからない。だがBFGの姿はどこか前作『ブリッジ・オブ・スパイ』の主人公ドノヴァンを思い出させもする。西と東、橋のこちら側と向こう側の圧倒的不均衡の間に立ち続ける男のことを。そうした意味で、BFGのあの慈愛に満ちた笑顔の瞳の奥に流れる哀しみや後悔は、どこかの国家元首に軍隊を派遣してもらうことがなんらかの問題の根本的解決につながるとはとても思えないこの現代にあって、ひとつの道徳的な態度を示しているように見えた。

■結城秀勇
1981年生まれ。映画批評。雑誌「nobody」編集部。同誌24号から36号まで編集長。共編著に『映画空間400選』(LIXIL出版)。

■公開情報
『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』
全国公開中
監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:メリッサ・マシスン
音楽:ジョン・ウィリアムズ
原作:ロアルド・ダール「オ・ヤサシ巨人BFG」(評論社刊)
出演:マーク・ライランス、ルビー・バーンヒル レベッカ・ホール ペネロープ・ウィルトン
配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン
(c)2016 Storyteller Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.
公式サイト:http://www.disney.co.jp/movie/bfg.html

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