宮台真司の『カルテル・ランド』評:社会がダメなのはデフォルトとして、どう生きるかを主題化

宮台真司の『カルテル・ランド』評

<クソ社会>をどう生きるかという実存問題

 『カルテル・ランド』は日常的に目にしない麻薬戦争が描くので、特別な場所の特別な話だと思われがちだけど、ハイネマン監督や製作総指揮キャスリン・ビグローがそう理解していないのは、国境の米国側にも自警団が存在して「法の外で」活動する事実を冒頭に描くことでも分かります。

 説明すると、どんな先進国でも公安警察が常に既に“事実行為”と称して「法の外」で活動します。自由の中に「自由な社会を転覆する営み」が含まれ得る以上、法を守ることに意味がある自由な社会を、しかし法を守ることで台無しにする可能性があるからです。だから“事実行為”は必要です。

 それは見えない所で行われていたので、そのぶん「例外状態に於ける主権者の意志」として正当化できました。でも我々は既に、おぞましきグアンタナモ収容所の存続や、誤爆だらけのドローン攻撃の存続を通じ、かかる“事実行為”が目に見える所で常時展開している事実を知っています。

 監督や製作総指揮者は、例外状態がもはや例外ではなくなったそうした変化を踏まえ、グアンタナモ収容所での肉体的・精神的拷問や、地上での事前調査の不在ゆえに数多の悲劇を生み出すドローン誤爆と同列に、国境の内外での自警団の「法外」の営みを並べているのだと、思われます。

 それぞれ「法外」の意味が少しずつズレますが、それこそ「法外」なので、ズレを細かく取り立てて「悪をピンポイントで名指す」営みに、意味がないのです。そのように言える程には<クソ社会>はその本質的なクソぶり──<根源的な未規定性>──を既に露わにしていると言えるでしょう。

 繰返すと、<可能性の説話論>が<不可能性の説話論>へと大規模に移行しつつある現在、表現の主題が、クリアカットな「悪の大ボス」批判から、デタラメな<クソ社会>をどう生きるかという実存問題へと移行しつつある事実を確認できます。二つのドキュメンタリーにその兆候を見ました。(後半へ続く)

■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

■公開情報
『カルテル・ランド』
シアター・イメージフォーラムほかにて公開中
監督・撮影:マシュー・ハイネマン
製作総指揮:キャスリン・ビグロー
配給:トランスフォーマー
2015/メキシコ・アメリカ/100分/原題:CARTEL LAND
(c)2015 A&E Television Networks, LLC
公式サイト:cartelland-movie.com

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