“最後の昼ドラ“が見せる究極の愛憎劇ーー『新・牡丹と薔薇』と脚本家・中島丈博の凄味とは

 中島丈博は1935年生まれ。自伝的作品である『祭りの準備』の脚本や『郷愁』の監督としても知られ、日活ロマンポルノの脚本を多く手掛けていた。90年代後半には渡辺淳一の『失楽園』のドラマ版の脚本も手掛けているほか、『炎立つ』や『元禄繚乱』(ともにNHK)などの大河ドラマも手掛けており、キャリアだけみれば大御所の脚本家だと言える。

 そんな重厚なキャリアと00年代以降の昼ドラ路線は一見別物に見えるが、性欲を通して男と女の愛憎劇を書いてきたという意味において中島にとっては同じものなのかもしれない。また、『新・牡丹と薔薇』の冒頭は、ぼたんと美輪子の母親である眞澄が高校生の時に妊娠してしまうところからはじまるのだが、愛と性の問題が家族の歴史につながっていくことも中島作品の特徴といえる。いうなれば、男と女の愛憎が親子の因縁にまで絡んでいく重厚な歴史劇こそが中島作品の本質だが、このような古臭いドラマが成立する場所など存在しないことは本人が一番わかっているのだろう。

 そんな中で、結果的に昼ドラだけが、中島の作家性の受け皿と成りえた。もちろん、その受け入れられ方は、徹底的にネタとして消費される世界だ。その意味で客観的に見れば悲しい撤退戦と見えなくもない。だが、『新・牡丹と薔薇』を見ているとネタとして消費されることが、中島の作家性を弱めたとは思えない。むしろ昼ドラを書きつづけることでしかたどり着けない場所に到達しようとしているのではないだろうか。

 例えば第10話では、吉田多摩留(戸塚純貴)と美輪子がお互いに激しい愛情をぶつけ合い、やがて肉体関係を結ぶことになる。その時に多摩留は「人を好きになると悲しくなる」と言うのだが、この台詞には不覚にも感動してしまった。もっとも次の回になると多摩留の言う「悲しい」が、ただの性欲だとわかり美輪子は幻滅して、距離を置こうとして、やがて多摩留はストーカーになってしまうのだが、ここには男と女の愛憎劇が、しっかり描かれている。

 おそらく中島にとって人間の愛憎と滑稽さは表裏一体の切り離せないものなのだろう。だからネタ的に消費される昼ドラの馬鹿々々しさがあればあるほど、中島の書く愛憎劇は深みを増していくのだ。

■成馬零一
76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。

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