『八つ墓村』祟りや呪いの背景にある因果応報思想とは? 横溝正史の“草双紙趣味”を解説
横溝正史原作の新作映画『八つ墓村』(清水崇監督)が、9月18日より公開された。横溝の同名小説(1951年)では、金田一耕助が探偵として名推理をみせる。絣の着物と羽織に袴という和装で下駄をはき、考えごとをして頭をかくとフケが散る。なんとも冴えない見た目だが、この憎めないキャラクターが活躍する金田一シリーズは、映画やテレビドラマで何度も映像化されてきた。『八つ墓村』の映画化も、今度で4回目だ(テレビドラマ化は7回)。
戦国時代に8人の落武者が、村へ逃げてきた。村人たちは、彼らが隠し持つ黄金が目当てで皆殺しにしてしまうが、若大将は死ぬ間際、後世までこの村に祟ってやるといい残す。その祟りが実現したかのごとく、怪事が続く。このため、霊を鎮めようと墓を立てたのが、「八つ墓村」の名の由来だという。時が過ぎ大正時代に、落武者殺しの首謀者の子孫である田治見要蔵が、常軌を逸した事件を起こす。点けたままの懐中電灯2本を白鉢巻きで鬼の角のように結びつけた彼は、日本刀と猟銃で村人を無差別に襲い、32名を殺戮したのだ。26年後、戦後間もなくの八つ墓村へ、己の出自を知らなかった要蔵の息子・辰弥が呼び寄せられる。そのことが引き金となったように連続殺人事件が発生する。これが、原作のストーリーの大枠だ。
『八つ墓村』に限らず、『獄門島』(1949年)、『犬神家の一族』(1951年)、『悪魔が来りて笛を吹く』(1954年)、『悪魔の手毬唄』(1959年)など、繰り返し映像化されてきた金田一シリーズ作品には、共通のテイストがある。祟りや呪いといった超常現象を思わせる怪事が続発するホラー的な部分と、探偵が物証、アリバイ、動機などを調査、推理して、今を生きる人間の犯行を合理的に解き明かすミステリー的な部分が同居していることだ。
かつて1970年代後半に東宝映画のシリーズが石坂浩二主演で人気を博しただけでなく、TBSのドラマ・シリーズで古谷一行、松竹映画で渥美清、東映映画で西田敏行が金田一耕助を演じるという、横溝作品映像化の乱立時代があった。それが、今日まで続く金田一人気の基盤ともなったわけだが、当時から横溝作品の映像化は、ホラーの特集にもミステリーの特集にもとりあげられていた。ホラーとミステリーのどちらの面に力を注ぐか、映画やドラマの製作陣によって違っていたし、受けとる側もどちらを期待するかは一様ではなかったのである。
『八つ墓村』の場合、1977年の野村芳太郎監督、渥美清の金田一役(和装でなく洋装で演じた)による映画化が、ホラー色を強めたアレンジでヒットした。そのため、後の同作の映像化に影響を与えてきた経緯がある。ミステリー・マニアは、合理的解決よりも非合理な怪異を前面に出すアレンジに批判的だが、野村監督版『八つ墓村』は、映画のキャッチコピーに使われた「祟りじゃー」が流行語になるなど、ホラー路線が一般層に受け入れられたのだ。
横溝正史は生前、自作について草双紙趣味ということをよく語っていた。彼は戦前には、江戸時代の草双紙(黄表紙、合巻など挿絵つきの物語)に通じる怪奇性、耽美性を主とする小説を発表していた。だが、戦後には、合理的な謎解きによる意外性を打ち出した本格ミステリーへと、執筆の方向を変えた。だが、事件の不可思議さや雰囲気作りとして、怪奇、耽美の草双紙趣味は続いていたといえる。
『犬神家の一族』で家宝の「斧琴菊(よきこときく)」にちなんで菊人形の首と切断した生首をすげ替えるとか、『獄門島』、『悪魔の手毬唄』で和歌、手毬唄の内容に見立てて殺害死体に装飾を施すといった趣向に、怪奇、耽美を好む横溝の嗜好がうかがえる。
『八つ墓村』の場合、死体の装飾はないものの(そのかわりといってはなんだが、作中で殺される人数は多い)、惨殺された落武者や32人殺しの犯人に関する伝聞、双子の老婆や八つ墓明神の祟りをいいつのる尼といった印象的なキャラクターの登場、戦国時代から見つからないままの黄金、秘められた恋愛といった要素が、怪奇性、耽美性を高めている。また、小説の後半は、鍾乳洞を舞台にした逃走追跡劇となるし、金田一シリーズのほかの有名作品に比べると、原作自体のホラー色が強い。映像化におけるホラー寄りのアレンジを誘発するものが、もとの小説にあるのだ。
先に横溝の草双紙趣味に触れたが、江戸時代の戯作に関連して彼は、エッセイ「読み本仕立て」(1970年)でこういうことを書いていた。曲亭馬琴の読み本『南総里見八犬伝』は、作者が思う儒教的理想と、仏教的因果応報思想を追究する内容であり、作中の人物もそのために登場する。それに対し、謎と論理でできあがった本格ミステリー小説の作者は、トリックを構成する分子として人物を配置する。どちらも血の通った人間を描くことを第一目的にはしていないものの、読者の心をとらえて離さない読物である。そこに共通点を見出せると、横溝はいうのだ。
仏教的因果応報とは、よく知られたフレーズ「親の因果が子に報い」のように、親が悪事を行ったことが子の不幸につながるといった考え方を指している。金田一シリーズの有名作品をみると、親や祖父が犯した罪や性的放縦が、次の世代に悪影響をおよぼし、家族関係をややこしくするという筋立てが多い(『八つ墓村』では、戦国時代の遠い先祖まで出てくる)。過去からの悪影響が祟りや呪いとして現実化したかのごとく、不可解な連続殺人事件が起こり、金田一が推理によって真相を解き明かす。同時に祟りや呪いのようなものも、解消される。人間たちのドラマとしては、悪影響が事件を引き起こすばかりでなく、かつての因縁を解きほぐす新たな人間関係が生まれ、希望がほの見えるという結末の作品もみられる。
いずれにせよ横溝は、因果応報を意識した物語作りをしていた。祟りや呪いを思わせる金田一シリーズのホラー色は、そのような因果応報の図式から生まれている。原作『八つ墓村』は、落武者の若大将が村に祟ってやるといい残して死に、後の時代に惨劇が相次ぐ。それに対し『南総里見八犬伝』は、里見家に罰せられる悪女が、子孫まで呪うことを宣言して命を絶たれ、やがて同家に災厄がふりかかる。物語の構造が相似している。なるほど「読み本仕立て」だ。
野村監督版『八つ墓村』では、金田一が推理らしい推理をあまりしないことに、ミステリー・マニアは不満を覚えていた。考えてみれば、同映画での金田一は、むしろ「読み本仕立て」でいうところの仏教的因果応報の連鎖を確かめることに力を注いでいた。ホラー仕立てにアレンジされた内容だったため、自然とそういう役回りになったのだろう。結果的に野村監督版『八つ墓村』は、ホラーとしては印象的な映画になった。
金田一シリーズは、ミステリーとホラー、どちらの面から読んでも面白いが、二重構造であるだけに両面を同時に納得させるアレンジは難しい。魅力的で厄介な作品群なのだ。