ミステリ評論家が『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を分析 横溝正史の名作に通じる仕掛けも

 7月24日から『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』(及川啓監督)の公開が始まった。公開初日の時点で興行収入100億円を狙えそうな気配さえあるが、今年を代表するホラー映画・ミステリ映画として、どこまで数字が伸びるか注目される。

 ……などと書くと奇を衒っているように思われそうだが、私としてはそのつもりはない。『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、国民的大ヒット漫画の映像化であると同時に、ホラー勢、ミステリ勢にも観てもらいたい作品だ。

 原作であるナガノの漫画『ちいかわ』は、ご存じの向きには紹介する必要もないと思うが、未履修組のために簡単に説明しておく。世界観は基本的にはファンタジーであり、臆病なところもあるがいざとなると勇敢なちいかわ、ポジティブ思考で友情に篤いハチワレ、怖いもの知らずでマイペースなうさぎという三人組を中心に物語が展開される(ちいかわ・ハチワレ・うさぎは通称であり、彼らが固有名詞を名乗っているシーンはない。それについてはこのあと紹介するキャラクターたちも同様)。他にレギュラーとして、自己中心的で自分の欲望に忠実なモモンガ、上位ランカー(意味は後述)でちいかわたちの兄貴分のラッコ、酒好きなくりまんじゅう(この世界では酒を飲むにも資格が必要)、優しく温和なシーサー、モモンガになついている古本屋といった面々がいる。彼らは「ちいかわ族」と呼ばれる種族であり(これも作中にそういう呼称があるわけではない)、草むしりや店舗でのアルバイトから危険を伴う怪異の討伐に至るまで、さまざまな労働によって報酬を得ている。先ほどラッコについて「上位ランカー」と記したが、それは強大な怪異の討伐をこなしてきた強者という意味だ。彼らの労働は、西洋甲冑姿の「鎧さん」たちによって管理されている。

『ちいかわ』世界における怪異は、極めて唐突に襲いかかってくる。しかも、ただ直接的に危害を加えてくるのみならず、フェイントを利用した心理作戦を仕掛けてきたり、悪夢やタイムループを体験させられたりもする。しかもちいかわ族は、何かのきっかけでちいかわ族を捕食する大きな生物に変貌することがあるらしい。一見長閑に暮らしているちいかわたちだが、その日常は危険と紙一重であり、『ちいかわ』世界は可愛らしい絵柄から想像される以上にシビアなのだ。

 さて『ちいかわ』は、フジテレビ系の朝の番組『めざましテレビ』で2分ほどのアニメとして火曜日・金曜日に放映されているが、今回公開された『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、原作の中でも最長の「セイレーン編」あるいは「島編」というエピソード(コミックスでは第8巻にあたる)のアニメ映画化である。著者のナガノは、当初から映画化を想定してこのエピソードを執筆したらしい。

 ちいかわたちのもとに、ある島から「島でのカンタンな討伐で100倍の報酬をもらおう」というチラシが届いた。ちいかわ・ハチワレ・うさぎ・モモンガ・ラッコ・くりまんじゅう・シーサー・古本屋の8人は、他のちいかわ族たちとともに島へと渡る。彼らは島で歓待されるが、実はその依頼には裏があることをこの時点では誰も気づいていない。その夜、島の洞窟に迷い込んだちいかわ・ハチワレ・うさぎは、そこで巨大なセイレーンと、それに従う2匹の人魚と対面する。そして翌朝、100倍の報酬をもらえる筈の「討伐」の中身が明かされる。

 いつものレギュラーの他に、島で暴威を振るうセイレーンたち、ちいかわたちの案内役を務める島民のヒトハとフタバ、そしてちいかわの前に唐突に現れる謎のおじさん・島二郎といった個性的なゲストが登場するが、彼らの活躍は、音声がつくことによって更に印象的なものとなった(島民たちの歓待の歌や、セイレーンの初登場シーンの神秘的な歌声など、かなりミュージカル的な映画となっている。その意味で、歌手としても活動している鈴木みのりがセイレーン役というのは配役として正解だった)。原作はX(旧Twitter)で1ページずつ不定期に連載されていた漫画であり、次に何が起こるかわからない展開で読者を牽引したが、こうして1本の映画にまとまってみると、ひとつの物語としての構成が美しくさえあるし、足された演出はあっても削られたエピソードはほぼない。実はこの映画では、ナガノは脚本と総作画監督を担当している。原作者が関わった映像化が常に成功するとは限らないけれども、本作に関しては大成功例と言っていい。

 さて、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』がホラーだというのは、巨大生物セイレーンの情け容赦ない襲来ぶりからも明らかだろう(近年、北沢陶『骨を喰む真珠』や綿原芹『うたかたの娘』といった人魚ホラーの秀作が相次いで発表されているが、本作もその系譜に連なるという見方が可能だ)。また、巨大生物パニックホラーの要素以外にも、登場人物たちの罪と罰をめぐる心理ホラー的な面も強い。一見可愛らしいキャラクターデザインと声なので騙されそうになるが、偽りの依頼でちいかわたちをおびき寄せた島民たちの必死さと表裏一体の狡猾さも、原作以上に印象に残る(個人的にこの映画で一番怖かったのは、原作のコミックス第8巻122ページに該当するシーンの島民たちのリアクションだった)。

 そもそも、「セイレーン編」以外にも原作にはホラー的エピソードが多く、その幾つかは既にアニメ化されTV放映されている(「拾魔」「山姥」「あくむ」など。特に「拾魔」はトラウマ級の最恐エピソードに仕上がっていた)。『ちいかわ』とホラーというジャンルの親和性の高さをあらかじめお茶の間に馴染ませておいて、満を持して公開されたのがこの映画だったわけである。

 では、この映画がミステリであるとはどういうことか。

横溝正史『獄門島』(角川文庫)

 セイレーンの襲撃は、ある出来事の犯人が島民のうち誰であるかを炙り出すためのものであり、その意味ではこの物語はフーダニットだと言えなくもないのだが、実はかなり早い段階でその手掛かりはフェアに提示されている。しかもそれはある言葉の意味の解釈違いとしてミスリードされる仕掛けになっており(この「言葉の意味の解釈違い」の仕掛けは終盤でもう一度繰り返される)、その点では横溝正史の小説『獄門島』に近いことをやっている。ちいかわは手掛かりを発見して真相に辿りつくという意味ではこの物語の探偵役なのだが、終盤でのちいかわの懊悩と選択は、やはり横溝の幾つかの作品における金田一耕助を想起させる。また、犯人の回想に時間を費やした構成は、松本清張原作の映画『砂の器』に近い。

 自分の本業がミステリ評論家なのでそちらにかなり引き寄せた解釈になってしまったけれども、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』にはそのような楽しみ方もあるということを記しておきたい。

■公開情報
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』
全国公開中
キャスト:青木遥(ちいかわ)、田中誠人(ハチワレ)、小澤亜李(うさぎ)、井口裕香(モモンガ)、内田雄馬(ラッコ)、淺井孝行(くりまんじゅう)、島袋美由利(シーサー)、春海百乃(古本屋)、最上嗣生(島二郎)、鈴木みのり(セイレーン)
原作・脚本:ナガノ
監督:及川啓
キャラクターデザイン:辻智子
コンセプトアート:橋本真樹
プロップデザイン:高妻匠
色彩設計:長井彩香
美術監督:眞﨑萌
CG監督:中野祥典
撮影監督:岡﨑正春
編集:高橋歩
音響監督:土屋雅紀 
音響効果:倉橋裕宗(オトナリウム)
音楽:トクマルシューゴ/上水樽力
アニメーションプロデューサー:溝口侃
アニメーション制作:サイピク
製作:川上洋一、古澤佳寛
エグゼグティブプロデューサー:松崎容子
プロデュース:今福太郎
プロデューサー:小峯雅隆、障子直登
宣伝プロデューサー:林原祥一、斎藤愛子、狩野裕明
製作幹事:QTORY inc.
配給:東宝
©ナガノ / 2026「映画ちいかわ」製作委員会
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