横溝正史『悪魔の手毬唄』なぜ何度も映像化される? 若者と中高年、都会と地方……事件を彩る複雑な背景
NHK BS4Kで横溝正史原作のドラマ『悪魔の手毬唄』が、3月14日、21日に前後編で放送される。吉岡秀隆が名探偵を演じるNHK版金田一耕助シリーズの第5弾である。
横溝の金田一ものは、1940年代から映画化され、後にはテレビも含め、数多く映像化されてきた。繰り返しリメイクされる作品も多く、とりわけ見立て殺人ものは人気であるように思う。童謡や伝説などに見立てて、犯人が死体や現場を装飾する事件である。例をあげると、『獄門島』では松尾芭蕉の俳句「むざんやな冑(かぶと)の下のきりぎりす」をなぞって、娘の死体が釣鐘のなかに入れられた。『犬神家の一族』では斧琴菊(よきこときく)の家宝に対応して、青年の生首が菊人形に据えられたりした。
いずれも連続殺人事件が題材であり、その意味では陰惨な内容だ。とはいえ、金田一シリーズでたびたび映像化される作品は、敗戦から10年も経たない時期を背景とし、因習の残る地方を舞台にしたものが多い。いつもヨレヨレの羽織と袴を着ている金田一をはじめ、まだ和装の人が多くいた頃だ。そのため、70年以上経過した今となっては、私たちとは別の常識が支配する時代劇、一種の異世界ファンタジーのように楽しめる。なかでも、見立て殺人には妖しい華やかさがあって、最たる作品が、『悪魔の手毬唄』だ。
兵庫県との境の近くにある岡山県の鬼首(おにこべ)村が、舞台。庄屋の末裔の老人・多々羅放庵が、自宅に血痕を残して失踪する。続いて、同じ歳の若い女性が、立て続けに殺される。滝つぼで発見された1人目は、口に漏斗がさしこまれ、上に置かれた枡にたまった水がそこに流れ落ちるしかけになっていた。2人目、3人目の被害者にも、それぞれ現場に奇妙な要素があった。やがて、一連の死体の置かれた状況が、古い鬼首村手毬唄の歌詞を見立てたものだとわかる。1番の詞には「女たれがよい枡屋の娘/枡屋器量よしじゃがうわばみ娘/枡ではかって漏斗で飲んで/日がないちにち酒浸り」という部分があったのだ。被害者は、枡屋の屋号を持つ家の娘だった。2人目、3人目の現場も、2番、3番の詞をなぞっていく。
鬼首村では23年前の戦前に詐欺師騒ぎがあり、それを追及した男が返り討ちにあって殺された。だが、死体の顔が損傷していたことから、磯川警部は加害者と被害者の入れ替わりを疑っていた。未解決のその事件と現在の連続殺人は、関係しているのか。磯川の勧めで鬼首村の亀の湯へ静養にきていた金田一は、事件と向きあうことになる。
横溝正史は、芝居や楽器演奏といった芸能的要素をしばしば自作に盛りこみ、キャラクター造形や雰囲気作り、トリックに活かした。そうした作品群のうちで特に芸能的要素がポイントとなっているのが、『悪魔の手毬唄』だ。
若い女性の連続殺人事件が起きるのは、「大空ゆかり」の芸名で女優・歌手として活躍する別所千恵子が、鬼首村へ里帰りしたタイミングである。「グラマー・ガール」と称される大空ゆかりの帰郷で村はざわつき、特に彼女と同世代の若者たちは浮ついている様子だ。大空ゆかり=千恵子は、詐欺師で殺人犯とされる恩田幾三の娘なのだが、人気芸能人となった彼女は村で歓迎される。「グラマー・ガール」と呼ばれるわりには、エロを発散するわけでもなく、男みたいにぶっきらぼうなのがかえっていい、高ぶるのでもなく気を使っているなどと周囲から意外に好感を得るのだ。
ゆかりが到着して間もなく、連続殺人が発生し、連日、被害者の通夜が営まれる。その席で彼女は、故人のために歌ってほしいと請われ、シャンソンの「枯葉」を披露する。
一方、作中では過去の芸能にも言及される。金田一が宿泊する亀の湯の女将・青池リカの亡夫・青池源治郎は、かつて村から神戸市へ出て、活動写真(無声映画)の弁士の売れっ子となった。だが、亀の湯の次男だった彼は、音声のあるトーキー映画の登場で弁士の職を失い、リカを連れて帰村した。そのリカも以前は、神戸の寄席に若い女の子5、6人で出演し、三味線を弾きながら歌う女道楽というものを演じていたという。源治郎こそ恩田幾三に殺された人物だった。亀の湯を切り盛りするリカは、今でも村の名家の当主が訪れると、三味線を弾いてみせたりしているようだ。
大空ゆかりは成功し、青池源治郎・リカは廃業した違いはあるが、彼らは村の外で芸能の仕事をしたという共通点がある。戦前の村では芸能者が蔑まれ、戦後はその種の旧弊な差別感が薄れたという時代の変化が、それぞれの人生に影を落としている。
一方、彼らが演じたような都会の芸能と対照的なのが、孫の由良泰子が殺された、83歳の由良五百子刀自のふるまいだ。死体の状況と歌詞の共通性に気づいた彼女は、関係者を集めた座敷で鞠をつきながら鬼首村手毬唄を歌ってみせる。素人の老婆が発しているのだから、想像されるのは、都会的な芸能とは異なる朴訥な歌声だ。しかし、その歌詞は、見立て殺人が起こった結果、殺害現場を描写したごとき内容と化しているのだ。聞く者たちは慄然とした反応を示す。孫を殺されて悲しいはずの五百子刀自だが、金田一は、彼女の表情に得体のしれないものを感じる。どこか状況を楽しんでいるようでもあるのだ。
「その顔には童女のようなあどけなさと同時に、八十何年というながい歳月をいきてきた、老女の邪智と意地悪さが混淆しているようである」。
久しぶりに『悪魔の手毬唄』を読み返し、この場面にゾッとした。大空ゆかりが、都会のセンスとして持ち帰ったシャンソンの「枯葉」とは正反対の因習的な村の空気を、五百子刀自の手毬唄は象徴している。
この小説では、青池リカの息子・歌名雄が村でいかにもてているかといった若い世代の色恋沙汰とともに、70歳過ぎで8人目の妻に逃げられた多々羅放庵など、中高年世代のこれまでの性愛が語られもする。世捨て人のような放庵は、村の秘密をあれこれ知っている、どこか怖い存在だ。
金田一は、放庵と復縁するため村へ行く途中のりん(放庵の5番目の妻)と、黄昏の峠ですれ違う。腰の曲がった老婆の「ごめんくださりませ。おりんでござりやす。お庄屋さんのところへもどってまいりました。なにぶんかわいがってやってつかあさい」という声を金田一は聞く。本作の名場面である。だが、実はすでにりんは死んでいたとわかり、事件で暗躍する老婆の正体が問われることになる。
大空ゆかりや歌名雄を中心とした若者たちのにぎやかさがある一方、五百子、放庵、りんなど、強烈な印象を残す中高年キャラクターが多く登場するのが本作の興味深いところだ。直情的な若者と底が知れない中高年のすれ違う意識、芸能活動に見られるような都会と地方の意識の差が、事件の背景を複雑に彩る。絵として記憶に残る場面は多いし、ラストの金田一のセリフに代表される哀切さなどを思うと、この物語が何度も映像化されるのはよく理解できる。