AIはエーミールの気持ちを読めるか? 『読む技法』伊藤氏貴×矢野利裕が語る「正しく読む」ことで見えてくる他者の論理

伊藤氏貴『読む技法ーー詩から法律まで、論理的に正しく理解する』(中公新書)

 現代社会において、私たちはかつてないほど大量の文章に囲まれている。しかし、SNSでの不毛な論争や、安易な多様性の名の下に行われる独りよがりな解釈を目にするとき、「私たちは、書かれた文章を正しく読めているのか」という根源的な問いが浮かび上がる。

 この問いに対し警鐘を鳴らすのが、伊藤氏貴による『読む技法ーー詩から法律まで、論理的に正しく理解する』(中公新書)だ。本書は派手な批評理論を紹介するのではなく、文章の基本的な「構造」を把握し、言葉の背景にある「常識」を積み重ね、書き手の「意図」に迫るという、極めて誠実な読解の作法を提示している。

 本対談では著者である伊藤と、昨年『「国語」と出会いなおす』を上梓した国語科教員の矢野利裕を迎え、高校での「論理国語」「文学国語」の分離問題から、憲法の「立法趣旨」を読み解く重要性、AI時代に文学を読むことの意味まで、現代の読解教育が抱える課題についてさまざまに語ってもらった。

 文章を「わかったつもり」で終わらせないために。そして、自分とは異なる他者の視点に出会うために。混迷するSNS・AI時代を生き抜くための読解術が明かされる。

かっこいい理論より、まずは正しく読めること

矢野利裕氏(左)、伊藤氏貴氏(右)

矢野:伊藤さんの『読む技法』は、評論だけでなく、法律や小説、そして詩の読み方まで触れられていて、大変おもしろかったです。佐藤春夫と与謝野鉄幹の詩を読む章は、まさにこういったことをわたしも授業に取り入れたいと思いました。

 本書の趣旨は、文章を正しく読めるようになろう、ということですが、この当たり前の水準が今は意外と欠落していますよね。「解釈の多様性」という発想が通俗的に広まっているぶん、一義的に読むことに注意が向けられていないふしがあります。そういう意味でも、本書は大人が学び直すさいにもうってつけですし、論理的に正しく読むことだけでなく、文学を読むことの豊かさについても考えることのできる良い本だと思いました。

伊藤:ありがとうございます。本書を書いた問題意識もまさにそこにあります。矢野さんも僕も、大学時代を振り返ると「批評理論」というものが非常に力を持っていた時代だったと思います。特に僕らの世代は批評理論が花盛りで、学生たちは理論書を一生懸命勉強しました。

矢野:そうですね。僕のときは伊藤さんの頃よりは少し下火になっていたかもしれませんが、それでもまだ理論の余韻は強く残っていました。伊藤さんのご著書は、そういった先鋭的な理論の紹介ではなく、まずは「正しく」読むことの大切さが説かれていますね。

伊藤:僕も当時は必死で理論を吸収しようとしたのですが、この歳になって思うのは、その努力の多くが実は無駄だったのではないか、ということです。理論を使って作品を読み解くという行為が、いつの間にか自分の解釈を正当化するために、理論を都合よくこじつけることになってしまっていた。作品が何を言っているかよりも、理論がどう適用できるかというゲームになっていたんです。

 SNSを見ていても、お互いの考えを読み飛ばして相手の揚げ足を取るばかりで、議論にすらなっていません。敵か味方かの2種類の考え方でしか物事を見ていない人が多い気がしますし、もう少し相手のことを理解しようよと思います。

矢野:まずは相手の言っていることを理解して、批判をするならそれからですよね。

伊藤:いまは解釈の多様性が前提になっている、とご指摘されましたが、多様性を育むために導入されている「アクティブ・ラーニング」にも弊害があるように思います。生徒同士で相談したからといって、よりよい回答が出てくるとは限りません。文学理論や多様性も大事かもしれませんが、共通理解の上に立った理論や多様性であるべきですし、議論をするなら「まずはここまで、10人いたら10人がこう読めるよね」という共通の土台を確定させた後の話であるべきです。その土台なしにいきなり独自の解釈や理論を振りかざすのは、本当の意味での読書ではないと思います。

「わかった」から「わからなくなる」ことの豊かさ

伊藤氏貴氏

矢野:近年高校の「国語」の授業が「論理国語」と「文学国語」の選択制に分けられたことも、現場には混乱をもたらしました。文学にだって論理と呼び得るものがあることはごく当然なのに、そこをなぜ分ける必要があったのか。文学作品を構造として読み解くこと、論理的に把握することは国語の基本的ないとなみだったと思います。

伊藤:おっしゃる通りだと思います。しかも選択制なので、生徒は「論理国語」か「文学国語」のどちらか一方しか選ぶことができません。すると、受験に使えそうな「論理国語」が選ばれやすくなってしまい、文学の豊かさを知らずに卒業してしまう生徒も増えてしまうでしょう。矢野さんは「文学国語」を教えられているそうですが、教えるときに気をつけていることはありますか?

矢野:ぼくはもっぱら、文学作品の「構造」に意識を向けてもらいたいと思っています。例えば芥川龍之介の『羅生門』でいえば、下人はなんの前触れもなく老婆を襲ったわけではない。これからどう生きていこうかと途方に暮れて、にきびをいじりながら雨がやむのを待っていた下人が、老婆を襲うときににきびから手を離す。だとすれば、にきびは下人の逡巡を意味している。指導書にもそんなことが指摘されていますが、そうやって物語全体の構造は捉えられるわけです。この大まかな骨格をつかむことでそれまで読めなかったものが読めたと思えること。これがまずは大きな目標ですね。

 そして大事なのは、読めたと思った作品が、その後あらためて別の視点から読んでみたらわからなくなるという感覚です。一度読んだ『少年の日の思い出』を、「ぼく」ではなくエーミール視点から読んでみたら、途端に読めなくなってしまう。ここに小説の面白さがあります。エーミールに共感してしまった瞬間の戸惑いや、あんなに憎たらしい奴だと思っていたのに、彼の論理にも一理あると感じてしまったことのわからなさを感じること。ぼくが授業をする場合は、こういった二段階の構成を大事にしています。

伊藤:素晴らしい取り組みですね。ただ、カリキュラム通りの時間内で教えることは難しいのではないでしょうか。

矢野:そうですね、正直いつも所定の時間は超えてしまっています。

伊藤:しかし、それこそ大事だと思います。短い時間内では、作品の表面をなぞるだけになってしまいますから。

 いま矢野さんがおっしゃったように、他人の目からものを見る訓練こそが、SNSの不毛な議論を乗り越える力になるはずです。最近の教育論では、共感できるかどうかが重視されますが、本来、自分と全く価値観の合わない人、理解不能な行動をとる人の内面を、言葉を通じて辿ることこそが重要だと思います。共通理解をみんなで獲得した後、視点を変えてみるとまた読めなくなるという豊かさこそ文学を学ぶ意義だと思います。

小説を正しく読むには、「常識」も必要

矢野利裕氏

矢野:伊藤さんが教育現場で感じる問題はありますか?

伊藤:知識不足ですね。特に、事実に関する文書を読んで内容を正確に理解できる能力を測る「リーディング・スキル・テスト」は、文章を読む際に前提知識がいかに大切かということが見落とされているように思います。

矢野:ぼくは『「国語」と出会いなおす』という本のなかで「常識」ということを強調しました。小説で構造を捉えようということを言いますが、他方で、作品を取り巻く「常識」が抜け落ちているとなかなか文章は読めません。森鴎外の『舞姫』を読むなら「ウンテル・デン・リンデン」というベルリンの並木道がもつ文化的コードを知っておいたほうがいいし、夏目漱石の『こころ』を読むなら明治民法についても知っておきたい。そういう点でも、評論を読むことと小説を読むことは相補的です。「論理国語」と「文学国語」が分離するとそういうところが抜け落ちてしまうかもしれないですね。

 長い時間をかけて一つの作品に向き合うこと、前提知識を学ぶことの重要性の話になりましたが、その実践例として伊藤さんの『読む技法』では灘中学高校の橋本武先生のエピソードが紹介されていますね。

伊藤:橋本先生は、中学三年間の国語の授業で中勘助の『銀の匙』という100頁強の作品だけを読む、という教え方をされていました。二時間足らずで読めるような作品を三年間かけて読むわけです。しかしこれは、ただゆっくり読むだけではなく、小説に出てくる駄菓子を食べてみるとか、美術の先生と一緒に作品に出てくる凧揚げの凧を自分たちで作って飛ばしてみるといった体験を通して、文学とは作品の中で閉じているのではなく、すべての知識は繋がっているという感覚を養うためでもあるんですね。文学を通して、論理だけではなく、社会のさまざまなことを学ぶこともできるはずなんです。

憲法の「立法趣旨」を理解する

矢野:伊藤さんは本の中で、「読解力とは、書き手の『意図』を汲み取る力」と表現されていますね。文学研究の世界では「意図」という言葉はあまり好まれないかと思いますが、あえて使われている。これは勇気がいりませんでしたか?

伊藤:そうですね。もちろん著者が意識していなかった深層心理まで読み解くことも面白さの一つですが、まずは「書き手がどういう筋道で読者を説得しようとしているか」という意図を把握することが大切です。これを正しい読みの基準に据えたかったので、思い切って使いました。

矢野:なるほど。それは法律の「立法趣旨」を理解することに近いかもしれませんね。本書で素晴らしいと思ったのは、「日本国憲法を読む」という章がちゃんと置かれていることでした。そこで書かれていることは、法解釈のためには、なぜその法律が制定されたのか、どういう社会を作りたくてこの法律がこういう文言を選んでいるのか、という「立法趣旨」を理解することが重要なのだということですよね。もっとも改憲派・護憲派問わず、「立法趣旨」をどのように理解するかによって恣意的な言葉の解釈が横行することもありますが、それでも言葉の背景にある社会的な意思に意識を向けることは、とても重要だと思います。文章はそのような社会的な意思との緊張関係をふまえたうえで読まれるべきでしょう。

 ぼくが「常識」という言葉を使うときも、そのような社会的な意思のようなものを想定しています。文章の論理について考えると、その論理の背後にある「常識」のことを考えざるをえません。でも、リーディング・スキル・テスト的な「論理国語」の授業の方向性はそうではなく、揚げ足を取られまいとする官僚作文のようなものを求めている印象を受けます。

伊藤:それを揶揄して「霞が関文学」とも呼びますよね。いわば責任回避のための「論理国語」です。お堅い役所の実用文も、じつは「文学」的な読みができなければ意図は理解できない。現代文を「文学国語」と「論理国語」に分けるのは、かえって実用性を損なうのでは、と疑問に思いました。

長い文章を読んで、その構造を正しくつかむ

矢野:また、本書では評論の構造を魚の骨を使って解説されていましたが、これは書くことにも応用できると思いました。文章の構造を把握して読めるようになれば、その考え方を書くことに置き換えることができます。

伊藤:そうですね。自分で書いてみることで文章の構造が見えてくることもある。ただ、先ほどの『羅生門』ではありませんが、長い文章を読んで構造をつかむ能力が若い人を中心に衰えているなとは感じます。

「評論や論文の構造」の図、『読む技法』より

矢野:どうなんでしょうね。文学作品にかぎらなければ、本自体はわりとよく読んでいる印象は受けます。ただ一方で、ぼく自身もそうですが、SNSのタイムラインから単語を拾い読みするモードが強くなっている気はします。それはある程度の長さの文章から構築される論理とは異なっています。

伊藤:夏目漱石の『こころ』は生徒に全文読ませていますか?

矢野:このあいだ『こころ』を扱ったときは、夏休みを使って一冊読んでもらいました。教科書だと下編しか扱っていないものが多いですが、それだと青年「私」と先生の関係は見えなくなりますよね。『こころ』にかんしては全文読んだほうがいいと思いますが、学校現場ではなかなかそこまで余裕がないのかもしれません。

伊藤:若い人たちには、ぜひ長い文章を読んでほしいですよね。いまはAIが長い文章も要約してくれますけど、長さには長さで意味があります。ただ、長い文章が苦痛なのも、構造を把握できずに読んでいるからでしょうね。

矢野:それはあると思います。構造がつかめるようになれば応用も利きます。『羅生門』の楼が下人にとっての異界であるのと同様、新海誠の『すずめの戸締り』で人気(ひとけ)のないところが異界への入り口になっている。そうやって、ある物語を身近な物語と重ねながら全体像をつかんでいく。

伊藤:自分の感性だけを信じて読むのではなくて、構造や常識を学んだうえで、作品にあたってみることが大事ですよね。絵画や音楽でも、前提知識を知っているのと知らないのとでは、受け取り方も変わりますから。

AI時代に、人間にしかできない読みがある

矢野:まあ、ぼく自身は教養主義者ではないので、基本的には実感主義でもいいかなとは思っています。ただ、SNSで起こっている議論なんかを見ていると、もう少しだけ複雑な理路みたいなものを共有したほうがいいのかな、とも思います。そこで国語を通して何を教えたいですかと聞かれたら、いまの気分だと、たいへんつまらないことに「常識ですかね」という回答になります。日本語で書かれた文章って、日本語がわかっていればある程度拾い読みができます。『読む技法』はそこに、「意図」「正しさ」「趣旨」といった水準を再導入しました。本書は、わたしたちはなにを読んでいるのか、と問い直すきっかけになると思います。

伊藤:わたしは中学高校の教員だった頃、英語を教えていました。文法や英単語がある程度頭に入っている優秀な子どもたちの中で、あるときピタッと英文が読めなくなる子供たちがいました。彼らに共通していたのは、日本語ができないこと、日本語の本を読まないことだったんです。また、その生徒たちは単語を調べるときも、辞書に書いてある意味の中からどれが文脈に合っているのかを考えようとしない。

 さらに、いまは電子辞書すら使わず、スマホで調べる子供が多い。するとどうなるかというと、一番上に出てくる単語の意味しか当たらなくなる。生成AIも便利なので、使うなとは言いませんが、紙の辞書にある豊かさはありません。矢野さんの生徒は紙の辞書を使っていますか?

矢野:タブレット端末が手元にあることもあり、紙の辞書は見なくなりました。ちなみに、AIの話でいうと、高校生なんかは背徳感を感じながらAIを使っている人も多い印象です。AIに対しては、中年世代のほうが無邪気にはしゃいでいる気がする。

伊藤:それはおもしろいですね。

矢野:心のなかでは「AIを使ってサボるのはダメだろう」と思いながら、あまりにも便利だからつい使ってしまう。ぼくも自分が学生だった時代にAIがなくてよかったなと心底思います。絶対に自己嫌悪しながら堕落していた(笑)。いま思っているのは、教員が媚びるようなかたちで生徒にAIを使わせるのは良くない、ということです。教育におけるAIの議論は「学生や生徒はAIを積極的に使いたがっている」というどれだけ存在しているかわからない気持ちを過剰に汲み取っている印象があります。でも、当然のことながら、「AIに頼っていたら自分の頭で考えられなくなるのではないか」と心配する生徒の声も聞きますから。

伊藤:AIは契約書を正確に読み取ることはできるかもしれませんが、『少年の日の思い出』のエーミールの気持ちを回答させることは難しいと思います。AIが一般的になったいま、人間にしかできない「読み」があるはずですよね。

矢野:そうですね。文章には読み取られるべき書き手の「意図」や、ある程度の「正しさ」みたいなものがあるんだ、と伊藤さんが本書で書かれていました。でも、その「意図」や「正しさ」をつかむためには、なんというか大局観のようなものが必要です。「意図」や「正しさ」という水準を中心に据えたのは、本当に勇気のいる作業だったと思います。

伊藤:ありがとうございます。『読む技法』は、先鋭的な理論について解説した本ではなく、むしろ「常識」について書いています。文章を正しく読むこと、常識を学ぶことの大切さを、本書を通して知っていただければと思います。

■書誌情報
『読む技法ーー詩から法律まで、論理的に正しく理解する』
著者:伊藤氏貴
価格:1,100円
発売日:2025年11月20日
出版社:中央公論新社
レーベル:中公新書

関連記事