『映像研には手を出すな!』を今こそ読むべき理由 最新10巻で描かれる異才・浅草みどりの成長

 2026年1月9日、大童澄瞳の人気コミック、『映像研には手を出すな!』(小学館)の第10巻が発売された。およそ1年ぶりの新刊だそうだが、主人公たちの成長と、未来への希望が描かれた、圧巻の内容になっている。

 『映像研には手を出すな!』は、2016年、「月刊!スピリッツ」にて連載開始した、アニメ制作を志す女子高生たちの熱い日々を描いた青春物語である(2020年には、立て続けに、TVアニメ化、実写ドラマ化、実写映画化もされている)。

 主人公は、「アニメは設定が命」が信条の異才・浅草みどりと、カリスマ読者モデルにしてアニメーター志望の水崎ツバメ、そして、金儲けに異常なまでのこだわりを見せる策士・金森さやかの3人だ。

 物語は、そんな彼女ら「映像研」が、作品制作を通じて、新たな仲間たち(あるいはライバルたち)と出会い、時に障壁として立ちはだかる周囲の大人たちの理解を得ていく様子が――つまり、彼女らを中心とした「社会」が、アニメ制作をきっかけとして徐々に形成されていく様子が、軽妙なタッチで綴られていく。

 そう、「内」ではなく、あくまでも「外」に向けて「アニメを作ること」は、彼女たちにとっては「社会との接点」そのものなのだが、すでに自らも社会の一部であるという自覚のある水崎・金森に対し、昔から人付き合いの苦手な浅草は、前巻(第9巻)の時点では、まだ自分と社会との関わりについて、あまり深くは考えてはいない(ただし、第7巻の時点で、自分の作品を観た人たちを通して「人間」を知りたい、とは思い始めているようだが)。

※以下、『映像研には手を出すな!』第10巻の内容に触れています。同巻を未読の方はご注意ください。(筆者)

「魔窟」と「成長」

 そんな浅草の内面が大きく変わっていくのは、「次の作品の舞台は学校」と思い立った彼女が、仲間たちとともに地下の「謎空間」で巨大な飛行艇を発見したのち、「魔窟」と呼ばれる校内の複雑怪奇なダンジョンに足を踏み入れてからである。

 「魔窟」とは、かつて香港にあった九龍城砦を彷彿させる無法地帯で、独立した経済圏が形成されているため、そこでは「マル」という通貨しか使えない。魔窟には、卒業できない(しない)はぐれ者や、その他の怪しげなアウトローたちが集まり、学校側も生徒会(生徒団)も、なんとか解体したいと思いながらも手が出せない状態が続いている(浅草は、そこで暮らしている人々と「かつての自分」を照らし合わせ、「他者」のことや、「人間」のことを考えられるようになる)。

 良くいえば、魔窟とは俗世間から隔離された自由なアジールであり、それはそれで1つの「幸せな空間」が作られているといえなくもないのだが、第10巻のクライマックス(第71話)で、浅草は、魔窟を統べる男・スメラギに対して、毅然とした態度で自分の考えを述べることになる(このこと自体、人と正面から向き合うことが苦手だった彼女にとっては、大きな前進である)。

 「みんなが多様に生きることは、人類全体の可能性を広げ、繁栄に繋がる。“みんな”の一人がわし。そして、おたくや魔窟の住人もみんなのために――」

 これは、かつて、不登校という形で社会(=“みんな”)との関わりを拒絶していた彼女自身が、魔窟のような「ネバーランド」が生み出す「楽しさ」だけでなく、「焦燥感」をも知っているからこそいえた言葉だろう。

「共感」が作り出す新たな世界

 そんな浅草の「成長」(変化)に、「映像研」のプロデューサー的存在の金森は気づいており、第70話の最後でこんなことをいっている。

 「今、あんたは、魔窟の住人の立場に立ってものを考えている。それを共感という。あんたはこれを作品に使える。今までは面白がられているだけだったが、今度はあんたが、作品を届けたい人に向けてアニメを作るんだ」

 素晴らしい台詞だ。人はそれぞれ、自分にできるやり方で、社会と接していけばいい。むろん「映像研」の面々にとっては、それは「アニメ制作」ということになるわけだが、ひとりひとりが得意な分野で、「他者」のことを考え(金森風にいえば、他者に「共感」し)、「外」と繋がっていくことで、“みんな”――すなわち、社会は形成される。人類は繁栄する。

 おそらく、浅草が次に作るアニメーションは、これまでのような「自分が観たい映像」よりも、「“誰か”の心に響く映像」を優先することになるのだろう。それは決して、自分を曲げるということではない。それは、ひとりのクリエイターが、「社会」と「人間」について、誠実に考えたうえでの結論である。

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