「無知を認めることは少しも恥ずかしくない」『自省のすすめ』岸見一郎が語る、AI時代の考える力
哲学者・岸見一郎が新刊『自省のすすめ』(ちくま新書)で問いかけるのは、「考える」とは何か、そして私たちは本当に考えて生きているのか、という根源的な問題だ。知識の習得が優先され、余計なことを考えない態度が奨励されがちな日本の教育や社会において、思考はどのように痩せ細ってきたのか。
岸見はソクラテス、プラトン、マルクス・アウレリウスやキルケゴールといった哲学の系譜を手がかりに、無知を認めることの意味、自己内対話の重要性、SNS時代に広がる「集合的無知」への抵抗のあり方を語る。AIが即答を与える時代にあって、人が苦しみながら考え続けることの価値とは何か。文筆家の山本貴光が、岸見に「考えること」のヒントを聞いた。
「考えること」は、知識の習得だけではない
山本貴光(以下、山本):岸見先生の新著『自省のすすめ』の書名にあります「自省」という言葉は、哲学に関心のある人であれば、マルクス・アウレリウスの『自省録』を想起するかもしれません。ストア派の哲学者にも数えられるマルクス・アウレリウスは、『自省録』で自分自身といかに距離をとり、自分の行いや悩みに向き合うかという自己内対話を実践しています。
岸見一郎(以下、岸見):おっしゃる通り『自省のすすめ』では、アウレリウスのように自分に呼びかけ自身と対話すること、つまりひとりで考えることについて掘り下げています。
山本:「考える」という言葉は日常的に使われますし、学校や企業で「自分で考えなさい」と教えられる機会も多いですが、他方で考えるとはどのような営みかを正面から学ぶ機会は意外と少ないように感じます。考えることについて日本ではどのように位置付けられてきたのでしょうか。
岸見:今日、学校教育などで重視されているのは「知識の習得」であり、むしろ「余計なことを考えてはいけない」という風潮が強いように感じます。わたしの高校時代を振り返っても似たようなものでした。受験に必要な知識だけを勉強して、受験に関係のない倫理社会の授業では内職をしている同級生が多かったです。
わたしは考えることが好きな生徒だったのですが、これは小学生のときの経験が大きかったと思います。わたしの小学校五、六年生時の担任が詩人だったのです。その先生は毎朝黒板に自作の詩や宮沢賢治の詩を書いて、一時限目の授業はその詩について皆で討論することから始まりました。生徒が「これはいい詩です」と感想を言うと、先生は「なぜそう考えるのか、その根拠を示しなさい」と求めました。この時の「なぜか」と問い続けるトレーニングが、わたしにとって「考えるとはこういうことか」という原体験になりました。
高校三年生のときには、英語の本を読みたいが何がいいかと英語の先生に聞くと、「バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』を読みなさい」といわれ、その原著を貸していただきました。夏休み明けに返しなさいと言われたので、高校三年生の夏休みは朝から晩までラッセルの『西洋哲学史』を英語で読んでいました。およそ受験勉強とは無縁の読書体験でしたが、学ぶ喜びを知りましたし、そういう先生と出会えたのは幸福でした。
山本さんのおっしゃる通り、考えることが大切だと声高に叫ばれていますが、実際には考えていない人が多いのが実情です。『自省のすすめ』を通じて、自分がいかに考えていないのかに気づいてほしいと思っています。
毎日自分の心の動きを、喜びとともに見つめてみる
山本:岸見先生のご著書は、考えるとはいっても、いわゆる論理的思考とは何かを問う本ではありませんよね。
岸見:その通りです。論理的であるから物事をしっかりと考えられるかというと、そうとも言えない。対話の出発点で地に足がついていなければ、まるでプラトンの「夢の中の必然性」のように、論理的な整合性は取れているけれど、根っこの部分がない空虚な対話になってしまいますから。
山本:本書の第1章で、キルケゴールの「深淵をのぞき込む」という言葉を引かれています。例えば、自分のからだに重病が見つかったときに深淵が開く思いがして、それが一時的に思考のきっかけにはなる。しかし、それでも人は見たくない現実から目を逸らし、考えることを先延ばしにするのだと。つづく第2章では、緊急性がなくても考えることの重要性を説かれています。なにかと考えずにいられる誘惑の多い現代において、考えることに向かったり、習慣にするための助言はあるでしょうか。
岸見:人は病気などの危機に直面すると、人生の限りを意識し、生き方を変える決心をすることがあります。しかし、喉元を過ぎればその恐怖を忘れてしまうのも人間です。考えることは時に、見たくない現実を直視しなければならない怖いことでもあります。
大切なのは、外で起きる大きな出来事だけでなく、自分の内で起きる小さな変化に毎日注意を向けるトレーニングをすることです。「今日という日は昨日とは違う、明日もきっと今日と違う」と意識し、自分の心の動きを喜びとともに見つめることができれば、緊急性がなくても考えることが可能になります。
何も知らないと認めることは、少しも恥ずかしいことではない
山本:本書でも書かれていますが、自分の内を見つめないだけでなく、自分の無知に無自覚であることもまた、人生の大きなつまずきになり得ますよね。無知を認めることは思考の出発点として極めて重要ですが、同時に最も困難な課題でもあります。プラトンの対話篇に描かれるソクラテスの問答のように、自分の「知っているつもり」に気がつくにはどうすればよいでしょうか。
岸見:自分が何も知らないと認めることは、少しも恥ずかしいことではありません。しかし、現代社会では「いかに知識があるか」が重視されるため、無知を認めたら負けだと思い込んでいる人が多いのです。
哲学の語源は「ピロソピア」、つまり「知(ソピア)を愛する(ピロ)」ことで、哲学者も「知者(ソポス)」ではなく「愛知者(ピロソポス)」なのです。ソクラテスがそうであったように、「何も知らないからこそ知を愛する」という人が本当の意味での愛知者です。愛知者という意味での哲学者であるには、まず自分が無知であることを認めなければなりません。
プラトンの対話篇がおもしろいのは、一般的な哲学書と違って定義から始まるのではなく、定義に終わる、あるいは定義に終わろうとするも到達しないところです。例えば『ラケス』では、ソクラテスが「勇気とはなにか」について議論をしますが、「結局わたしたちは勇気が何であるか見つけなかった」と終わります。無知であることは恥ずかしくないことだと、まず大人が子どもに教えなくてはいけませんし、このことは今日の教育で欠けているところです。
山本:わからないと気づくところで終わるからこそ、そこから真に考えることが始まるということですね。
岸見:その通りです。最初に「哲学」という訳語を日本に定着させたのは西周でしたが、実は「哲学」という言葉の前に、西は「希哲学(きてつがく)」、つまり「知を希(こい)ねがう学問」と訳していました。この語感がいまの「哲学」という言葉からは抜け落ちている。いまの教育は「知者」を育てるばかりで、「愛知者」を育てるものになっていません。自分の無知を認めたら負けである、という認識を改める必要があると思います。
社会が作り出す「無知」とSNSの課題
山本:近年、アメリカの科学哲学や科学史の分野から出てきた「無知学(アグノトロジー)」という領域があります。個人の無知というより、社会が意図的に無知を作り出す仕組みを指摘するものです。例えば20世紀後半にタバコ産業が、タバコの健康への害を隠蔽するために膨大な資金を投じたようなケースです。
そのつもりで見ると、同じように人々の間に無知を作り出す仕組みがあちらこちらに見出されます。とりわけ現代では、企業が運営するSNSなども、フェイクでも出鱈目でも関係なく、より多くの人の注意を引くものが人の目に触れやすくなるよう調整されており、フェイクニュースや、間違った知識が広がりやすい状況があります。こうした時代だからこそ、自分が何を知らないのかを自覚することは、ますます重要になっていると感じます。
岸見:SNSを通じて社会全体が誤った言説を本当だと思い込んでしまうことは、現代の病だと感じます。
三木清はかつて、戦争へと突き進む社会の中で、それに抗うための「潜在的世論」の形成について語りました。あからさまに反対すれば叩かれる時代、身近な信頼できる人に正論を説き、それを少しずつ広げていく。現代においても、誰かが始めなければなりません。たとえ非力に見えても、徹底的に考え抜くこと。多くの人が賛成していることに対しても「本当にそうなのか」と問い続けることが、社会が滅びてしまわないための抵抗になるはずです。
自己内対話を深めるための「二つの椅子」
山本:先生はご著書の中で「自己内対話」の重要性を説かれています。自分を客観視し、思考を深めるために、もう一人の自分と対話するように考える。そうした対話が成り立つためには、自分ともう一人の自分が異なるものの見方をする必要もありますよね。ものごとを多面的に検討するためにも重要な方法だと思います。他方で、これができるようになるには、高度なトレーニングが必要であるようにも思えます。何か具体的なヒントはありますか。
岸見:多くの人は習慣的に、坂道を転がる石のように考えてしまいますが、立ち止まって考えなければなりません。
具体的な手法として「椅子を二つ用意する」という方法があります。まず一つの椅子に座って、自分の思いを向かいの空いている椅子に向かって話します。その後、席を入れ替えて、今度は先ほどまで空いていた椅子に座り、同じように話しかけるのです。物理的に場所を変え、体を動かすことで、自分とは異なる立場や視点を持ちやすくなります。自己内対話はどうしても自分に甘くなりがちですが、このようにして自分を二つ以上の「登場人物」に分けて、異なる立場から摩擦を生じさせることで、思考は真に深まっていきます。
考えることでしか得られない喜びがある
山本:そういう意味では、やはり本書で指摘しておられるように、自分と違う考え方の本を読むこともよい手がかりになるわけですね。通り一遍の読み方ではなく、長い時間をかけて精読し、一人の著者の本と向き合い続ける。そうすることで、自分ではない人の思考が脳裏に宿り、自分だけだとつい安直に考えてしまうような場合のストッパーにもなってくれますね。
岸見:そうですね。また、読書のみならず翻訳という営みもまた深い対話です。わたしは翻訳をする際、著者の写真を目の前に置いて、著者に文句を言いながら進めることがあります。「アドラーさん、これは間違いではないですか」などとブツブツ言いながら翻訳をするのです(笑)。
山本:おもしろいですね。翻訳者は著者の言葉の意味をできるだけ損なうことなく別の言語に移す仕事です。そこでまずは著者の言葉をとことん理解する必要がありますが、他人が書いた文章なので全面的に同意することもできない。にわかには呑み込めない箇所や、なにを言おうとしているのか掴みかねることもある。それでもなお理解しようと取り組むうちに、はたと「そういうことか」と分かったりもする。読書でも、翻訳をするように文章と向き合うことができたら、自己内対話の糧になりそうですね。
岸見:現代はAIが瞬時に答えを出してくれる時代です。しかし、AIは「人」ではありません。論理的には正しくても、そこに魂はありません。「考えること」や「書くこと」は、本来苦しい営みです。書きあぐねる日もあります。
しかし、そのプロセスそのものが生きるということであり、そこにしか見いだせない喜びがあります。AIに自分で考えるべきことを委ねるのは、自分の人生なのにAIに自分の人生を代わりに生きてもらうようなものです。本との出会いも、最初は「偶然」かもしれません。しかし、一人の著者の言葉を徹底的に読み込み、その思考を自分に引きつけて考え抜くことで、その出会いを自分にとっての「必然」に変えていく。答えのない人生の現実を直視し、自分自身の力で考え続けること。そのための勇気と喜びを、この本を通じて感じてもらえれば嬉しいです。
■書誌情報
『自省のすすめ――ひとりで考えるレッスン』
著者:岸見一郎
価格:1,012円
発売日:2025年12月10日
出版社:筑摩書房
レーベル:ちくま新書